政治的平和と宗教の平和

「全てのものは暴力に脅えている。全ての生き物にとって生命は愛しい。(他人を)自分の身に引き当てて、殺してはならない。殺させてはならない。」(『ダンマパダ』130)

●仏教は非戦

これは、お釈迦さまの言葉です。自分がそうであるように、他人だって暴力は恐ろしいし、また自分の生命が愛しい。言い分はお互いに色々あるだろうけれども何はともあれ「殺さずに」「非暴力で」ということでしょう。この立場は「非戦」の立場、つまり戦争そのもの、それ自体が過ちであって、正しい戦争なんて成り立たないという、戦争自体を否定した「非戦」の立場だといっていいと思います。私は、これが戦争に対する仏教の基本的立場だと思っています。

またこれは、武力による国際紛争の解決を禁止した憲法第9条に通じる立場だとも思います。
しかし残念なことに、北朝鮮脅威論を広め、国民に不安を煽ることに成功した政府は、この6月、「備えあれば憂いなし」と言って先制攻撃を可能にする有事法案を成立させました。

●政治は切りすてる

 「宗教と政治というものは、その宗教が普遍的原理に立つ宗教であるかぎり、政治とは、本質的にはまったく性格を異にするものである。宗教というものは、どこまでも個の立場、人間1人1人の立場に立つものであり、その人間のまことの在りようを問いつづけることによって、新しい人間成就、確かなる自立、その生命のまことの完結をめざすものである。それに対して、政治というものは、つねに全の立場、社会全体を問題とし、その社会の進歩向上をめざすものである。しかし政治は、個人を尊重するとはいいながらも、全体のためには、いつでも個を切りすててゆくのである。もとより宗教もまた、つねに社会全体を視野に入れているが、それはどこまでも、個の成長、その完結を通しての社会の向上を語るのである。」
         (信楽峻麿「親鸞思想と靖国神社」『宗教的人格権の確立』法蔵館)

 上の文章に関して色々ご意見はあると思いますが、私は、政治とは、国家とは結局のところこういうものだと思います。1部の人間の決めた政策によって、どれほど多くの生命が切りすてられたことでしょうか。また、歴史は教えてくれます。戦争指導者はいつも「正義のため」だとか「世界平和のため」とか、あるいは宗教的に権威付けをして「聖戦」だとか、またある時は「守るため」だともいます。家族とか国民とか国益を不埒な敵から守るのだというのです。小泉首相は「国民の平和と安全を守る」ために「備えあれば憂いなし」と言っていますが、「守る」といっているけれども本当のところはどうなのか、実は「切りすて」と「侵略」ではないのか、歴史に学ぶことで見えてくることは多いと思います。

●備えがあっても

 話は変わりますが、今年の春、お寺で放火が3回もあり、2度は消防が来る騒ぎとなりました。墓地が2度、庫裏(くり=住居部分)が1度燃えましたが、幸い大きな火事とはなりませんでした。放火したのは誰なのか、今度はいつ来るのかそれもとも来ないのか、どこに放火されるかも分からないという不安な日々を過ごしました。

ご近所にも迷惑がかかるといけないので、警備会社2社に屋外用の防火システムを見積もってもらいました。1社は1ヶ月2万円程度で見積もってきましたが、もう1社は全部で880万円もの見積もりを持ってきました。こちらとしても初めての経験なので、いったい2万円で大丈夫なのか、また880万円も必要なのか、どんな防火システムにすれば良いのかさっぱり分かりませんでした。

業者と色々相談していましたら、「費用対効果」という言葉を教えてもらいました。それは、「このくらいお金をかけると効果はこのくらいになる。」ということなのですが、「突き詰めて言えば、いくらお金をかけても限界があるということ」、つまり犯人が絶対燃やしてやるというつもりでガソリンをまけば、いくらお金をかけても意味をなさない、結局依頼主が「どの程度のところで納得するかということだ」という意味で使うのだそうです。確かにいくらお金をかけたって、最近のATM犯罪のようにブルドーザーで根こそぎ持っていくというような強硬手段に出られれば、何の意味もなさないですものね。

都会では、盗んだ人間が悪いのではなくて、取りやすいようなディスプレイをしている方が悪いそうです。さらに最近は、「取られないように」というよりはむしろ「ある程度取られることを前提に」商売をしているのだそうです。しかしそれでも田舎に行けば、監視カメラも警報装置もない無人の店に商品が並んでいて、お客が代金を箱の中に入れて勝手に持って帰るような仕組みが成り立っています。このことから考えてみると、「備え」も大切でしょうが、最後のところは「人間の心」なんだと思いませんか?

この放火騒ぎで私は、いくら「備え」をしても限界があるんだということと、結局大切なのは「人間の心」(を育てるということ)なんだということを学んだように思います。

●外からの「強制」ではなく内からの「めざめ」

「殺そうとしている人々を見るがいい。武器に頼ろうとするから恐怖が生じる。」(お釈迦さまの言葉『スッタニパータ』935)

「北風と太陽」という話をご存知でしょうか。
北風と太陽が競争して地上にいる人の上着を脱がそうとします。北風は、上着を吹き飛ばしてしまおうとビュービューと風を吹き付けましたが、強く吹き付ければ吹き付けるほど、脱がせるどころか逆効果になってしまって、その人は上着のボタンをしっかりとかけてしまいました。しかし太陽がぽかぽかと暖かい日差しを当てると、あっという間にその人は自分から上着をぬいでしまったという話です。

先にいいましたように私は、どれほど「備え」をしても「人間の心」の問題を抜きにしては何も解決しないと思います。私は、小泉首相の進める武力に基づく「備え」や「圧力」によって、北朝鮮が恐怖心を抱き、関係がどんどん悪化・緊張していると感じています。「信頼関係」を結ぶことの大切さを思うのであれば、「北風」のような「恐怖」を与える「武力」ではなく、「粘り強く対話を続けること」の方が大事なのはではないでしょうか。

また私は、あれほどフセインに忠誠を誓い、敬虔なイスラム教徒に見えたイラクの人々が、フセイン政権崩壊と同時に暴徒と化し、略奪を繰り返す姿を見て驚きました。権威や権力などで外側から押さえつけ強制しただけでは結局何も変わらない、粘り強い対話によって1人1人が内側からめざめて変わってゆくこと、そのことを通して誰1人切り捨てられることなく、社会全体が変わってゆくことの大切さを思います。気の遠くなるような話ですが、私は、これこそが仏教徒の非戦平和への取り組みだと思っています。

非戦平和を願う仏教徒の皆さん、有事法案が成立しても絶望してはいけません。たとえ1人でも、それが遥か遠い道のりであっても、対話を通じて、1人1人の心を大切にしながら、非戦平和の社会が実現してゆくよう、粘り強く取り組んでゆきましょう!

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