真宗カウンセリング
Dharma Based Person Centered Approach

読みもの


       「新型コロナウィルス」―真宗カウンセリングN―

 今年、新型コロナウイルスによって世界中が大混乱しています。感染して死ぬのではないかという恐怖、生活手段を失いどうすればいいのか、これからどうなるのか、さまざまな不安やストレスが私たちを押しつぶそうとしています。

 精神医学的には、「不安」は「対象のない恐れの感情」と定義されています。似たような言葉ですが「恐怖」は、閉所恐怖症、高所恐怖症など、対象がある場合に用いるようです。「不安」は対象がなく漠然と感じる恐れですので、ひとりで抱えていると無限に大きくなってゆきます。

 釈尊は、教えを聞く者と聞かない者はどう違うのかという質問に答えて、教えを聞く者は第一の矢を受けても第二の矢を受けないと答えています。「教えを聞かない者は、苦楽を経験すると(第一の矢)、それに繋縛(けばく=つなぎしばられること)され、さらにそれらを増長してしまう(第二の矢)。教えを聞く者は、身に矢を受けても心に矢を受けない。心乱れず動揺せず、第二の矢を受けることはない。仏法を聞くものも聞かない者も病気にかかる。しかしながら仏法を聞く者は、大苦 逼迫(だいくひっぱく)し奪命(だつみょう)しても心乱れることはない。」(『雑阿含経』『大正蔵』2-119『相応部経典』『南伝蔵』15-332)とおっしゃっています。

 親鸞聖人も、病いについて身と心に分けてお示しになっています。聖人は、正気を失って亡くなったお弟子についてその善し悪しを言ってはならないと書かれた後、「心よりおこる病と身よりおこる病は違いがあって、念仏申す人の死に様についても身よりおこる病の人は 往生の様子についてとやかく言ってはならないが、心よりおこる病の場合、天魔にもなり地獄にも堕ちるので、後者で亡くなる人のことをしっかりと考え、関わるべきである」とお示しになっています。(『御消息集』略本5・広本10『註釈版』789)

 私が思うのに、釈尊の説かれる「第一の矢」「身に矢を受ける」ということや、親鸞聖人の「身よりおこる病」とは、この身のあるかぎり誰も避けることのできない、変えることのできない、不可避不可変なる苦しみを意味しているのだと思います。そして、「第二の矢」「心に矢を受けない」とは、変えられること、可変なることであり、第一の矢をよく受け止め、動揺し心乱れてそれらを増長させることなく生きてゆけるようになることをいうのでしょう。そしてまた聖人の言われる「心よりおこる病」とは、教えが吹き飛んで人間を見失い、天魔となり地獄にも堕ちるような心、生き方となる私たちに、念仏者はその心をこそ課題としてゆくべきであると教えられるのだと思います。

 認知行動療法では、現実とは異なる自分の思い(認知の歪み)に縛られていることに気づくことを援助します。「外に出たら感染する」「感染したら死んでしまう」と思うと恐怖で何もできなくなりますが、私の場合、元看護師のつれあいに、この新型肺炎は飛沫感染(ウイルスを含む飛沫を吸いこむことで感染)や接触感染(ウィルスのついた手で目鼻口を触ることにより粘膜から感染)であって空気感染(外に出て誰もいないのに空気を吸うだけで感染)ではないことを教えてもらい、どれだけ気持ちが軽くなったか知れません。感染しても致死率は5%、相談する場所がある、受け入れて治療してもらえる場所があること(社会の仕組み)を知ることも、第二の矢を防ぐのにとても役立ちます。自然科学や社会科学を学び正しく知ること、ひとりで悩まず誰かに相談することの大切さを思います。

 仏教は、人間の生命の本質を教えます。「自粛して家にいることは生命を守ること(stayhome)」とテレビやネットで拡散され、お寺も生命は大事と法座を中止にしました。しかし釈尊は「大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。」(『ダンマパダ(法句経)』128)と説き、親鸞聖人は「生死無常のことわり」(『末燈鈔』6通『註釈版』772)、覚如上人は「死の縁無量」(『執持鈔』『註釈版』865)とおっしゃって、家でじっとしていても死ぬかもしれないし、コロナを生き延びてもいつか必ず別の理由で死なねばならない。そしてそれはいつ死ぬか、どんな死に方をするかは分からないと教えておられるのです。さらに親鸞聖人は、仏法を学び信心が定まった人は「臨終の善悪をば申さず」、どんな死に様であっても「愚痴無智の人も、をはりもめでたくそうらへ」と、どんな者でもめでたく(喜ばしく)終わることができる、実りある人生となることを説かれます。誰が言ったのか知りませんが「かたつむりどこで死んでもわが家かな」といえる人生です。避けることのできない第一の矢を仏とともにしっかりと受け止め、心よりおこる病を超えた人生です。

 コロナで死なない死なせない努力、安全安心はもちろん大切です。しかし仏教が教える人生、お寺が目指すべきは世間でいう安全安心とはちがうものだと思います。今、私の信心は「どこで死んでもわが家かな」と言えるでしょうか。聖人は、「日ごろの信が揺らいでしまったのは、信心がまことではなかったということであって、(それが分かったことは、まことの信心、本当に実りある人生のためには)良いことだ」とおっしゃっています(『御消息集』略本7・広本12『註釈版』774)。 
      「甘えと自立」―真宗カウンセリングM― 

 「自己こそ自分の主である。他人がどうして( 自分の) 主であろうか?自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る。」(釋しゃく尊そんの言葉『ダンマパダ』160)

 故信楽峻麿(しがらきたかまろ)先生は、「仏教・浄土真宗は自立の教えである」とおっしゃっていました。真宗は「他力の教え」とはいえ、何かに「依存」する生き方を教えているわけではありません。少なくとも釋尊は、自己をよくととのえ「自立せよ」とおっしゃっています。

 さらに先生は、阿弥陀仏の一方的な救いに「まかす」信心は、自立や人格成長、責任の論理
につながらない「甘え」の信心だと批判されていました(『親鸞の真宗か蓮如の真宗か』193頁)。
 「甘え」とは、精神科医土居健郎(どいたけお)『甘えの構造』(1971年)によって脚光をあびた心理です。『カウンセリング辞典』(誠心書房)によるとそれは「一体化の欲求」であり「依存欲求」であるとあります。母胎という申し分のない環境で幸せな生活を送っていた赤ちゃんは、生まれることで母胎と分離され、恐怖と不安におののきながら昔の安心感を求めて必死にお母さんにしがみつきます(一体化の欲求)。自分ではどうにもできないので頼るしかありません(依存欲求)。すかさずお母さんに優しく抱きかかえてもらい赤ちゃんは一安心。これが甘えの原点だそうです。

 通常「甘え」は、「自立できていない」「依存的」だという意味で否定的に用いられ、信楽先
生も「甘え」を全否定されていました。しかし、現在の精神医療やカウンセリングの世界では、
乳幼児期に「甘え」が満たされることはとても大切なこととされていて、この時期に言葉を超
えて安心感を与える関係(愛着関係)が作られることで、子どもは人間に対する信頼感、環境
に対する安全感を獲得してゆくことができます。「甘え」を満たすことは、人格成長、自立に
大切な役割を担っているのです。

 土江正 司(つちえしょうじ)『甘えとストレス』(2019年)によると、甘えの本質は「誰かによって安心感を与えてもらうこと」だといいます。乳幼児期の愛着関係がうまくいかないと生きづらい人生となり、私たちは安心感をえるために、「いい子作戦」「わがまま作戦」等、さまざまな生き方をすることが本書では紹介されています。私の理解するところ、「甘え」は「誰か(何か)によって」安心感を得ようとするその「依存性」によって常に「安心」できるとは限らず、本書ではそれらが「甘え」であることに気づき、「自立」の方向に作戦を「修正」してゆく必要と方法を教
えてくれているのだと思われます。「甘え」は自立につながる「甘え」とつながらない「甘え」
があるということでしょう。

 ある中学生が学校に遅刻し、教室に入って来るなり「ああむしゃくしゃする」と言って同級
生の筆箱を放り投げたとします。皆さんが先生ならどうしますか? A先生の回答では、「し
たことが間違いであることを生徒にしっかり教え、散らかった鉛筆を拾わせ、同級生に謝らせ
る。そして床の鉛筆をその子といっしょに拾いながら、何があったのかを聞く」とありました。

見事だなと感心しました。教育の世界では、「何があったのかを聞」いて「受容」「共感」する
とともに、間違いを教え、「拾わせ謝らせる」ような「しかる」こと「教える」ことも大切にします(武蔵野大学編『教育心理学』)。人格形成には、「優しさ」とともに「厳しさ」が大切です。自分が間違っていることを学ばなければ成長はありえません。さらに、誰も代わってくれないという厳しい「孤独」とともに、私は独りではないという、私を理解してくれる人との「連帯感」が不可欠であるといいます。間違いを認め、脱皮してゆくには大きな心のエネルギーが必要です。それはいっしょに鉛筆を拾ってくれ、話を聞いてくれるような人とのつながりによる「一体感」「安心感」、そして「励まし」や「期待」によってもたらされます。

 浄土真宗で、信楽先生がおっしゃる「自立」や「成長」がどこで成り立つのか。考えてみる
のですが、究極的には二種深 信(にしゅじんしん)(『教行証文類』『註釈版』213頁)、「めざめ体験」としての信心理解に集約されるように思われます。

 二種深信とは、二つのことを深く信ずる、深く思い知ってゆくことで、ひとつは「機(き) の深(信心(じんしん)」。「機」とは「法(教え)」の対象、私のことです。私は遠い過去から、そしてこれから先もずっと、深い罪を造り、迷い続けることしかできない存在であると深く思い知っていく、めざめてゆくことで、極めて厳しい自己否定体験です。もうひとつの「法の深信」とは、その私を決して捨てることなく受け容れ、必ず実りある人生(さとり)へと導く仏、その仏心(願い)について深く思い知ってゆく、めざめてゆくこと、そういう仏に出あってゆくことで私が仏に受容され、導かれる体験を同時にするということをいいます。

 以上、自立に導く「甘え」、自立につながらない「甘え」があり、また「甘え」を満たし自立に導く信心と、自立を阻害する「甘やかす」信心があるというわけです。
  
      「場面構成」―真宗カウンセリングL―    
     「自己肯定と自己否定」―真宗カウンセリングK―    

 最近「自尊感情」という言葉をよく耳にするようになりました。「自尊感情(Self-esteem)」とは、「自己肯定感」とも訳され、「私はこれでいいんだ」「私は大切な存在だ」と感じることをいいます。昨年大ヒットしたテレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」でも、登場人物の津崎平匡は、高学歴でありながら「自尊感情」が低い独身社員という設定でした。

 内閣府が2013年に若者(13歳〜29歳)に行った調査では、「自己肯定感」について「自分自身に満足している」と答えた人は、諸外国が軒並み80%前後であるのに比べ、日本の若者は45%と驚くほど低い結果となりました。「自尊感情」が低い人は、物事に対して消極的ですぐにあきらめてしまう傾向にあることが指摘されています。

 また「うつ病」にかかり、「悲観的マイナス思考」「自己否定の妄想」に苦しむ人も多く、現代人の10人〜15人に1人が経験するといわれています(私の実感としてはもっと多いような気がします)。このように私たちが感じている「自己否定」や「自己肯定」の感情は、現代日本人にとって現在進行形の課題であるといえます。
 
 私たちはみんな、小さい頃は「自分を神のように万能だと思い、願望が満たされるのを当然のごとく期待する心(=誇大自己)」を持っているそうです。幼い頃は母親等によってその万能感を満たしてもらえるのですが、成長の過程で徐々に限界を経験しながら折り合いをつけてゆくことを学んでゆくのだそうです。ローゼンベルグ(Rosenberg)によると、「自尊感情(自己肯定感)」も同様に「否定的な側面も含めた自己を受容すること」「自分の良いところも悪いところもあるがままに受け入れられること」を意味しています。自尊感情の低い私たち日本人は何を課題とせねばならないのでしょうか。

 さて、親鸞さまは、自分の善し悪しと感ずる心でもって浄土に生まれようとすることを自力としてお諭(サト)しになります。以下は親鸞さまの『御消息(お手紙)』のお言葉です。

わがみのわるければ、いかでか如来むかへたまはむとおもふべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆへにわるきものとおもふべし。(『註釈版』 747頁)

自分は悪人だからどうして阿弥陀如来が迎えてくださるだろうか、そんなはずはないと、自分で自分を否定することについて、「凡夫は本来煩悩を全て備えているのだから悪いものだと思うべきです」と、そのことを拒絶せず、また自分を責めたりせずに受け容れてゆくことをすすめられます。自己否定の否定です。そして、

また、わがこゝろよければ、往生すべしとおもふべからず。自力の御はからいにては真実の報土へむまるべからざるなり。(『註釈版』747頁)

と、「私の心は善良なので浄土に往生するにちがいないと思ってもなりません、自力のはからい(本願が分からないことにより自分にとらわれた狭い考えや行い〉では、とうてい真実の浄土に生まれることはできないのです」と、自己満足してしまうことを誡めておられます。自己肯定の否定です。

 親鸞さまはこのお手紙で、如来の「本願を信楽(シンギョウ)」するとは、自己否定を否定し、自己肯定も否定して、自己の狭く愚かな価値感、枠を超えた世界に気づいて生きてゆくことをお示しになっているのだと思います。

 また、親鸞さまは別のお手紙に、 

はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろく、こころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ。(『註釈版』740頁)

と、はじめて仏のお誓いを聞き始めたような人々が、わが身わが心の悪いことを思い知って、この身のようではどうして往生するだろうか、できるはずがないと、わが身心の悪を受け容れられない人には、「(凡夫は)煩悩まみれの身であるから(こそ、如来はその私を救うために誓いを建てられたのであり)、わが心の善悪を沙汰せず(裁かず)お迎え下さる」と、初門の人にとって往生を否定するものでしかなかい煩悩やわが身心の悪は、阿弥陀仏にとっては私を浄土へ導く根拠であることが逆転的に示されて、自己否定が転ぜられる道が示されています。

 しかしこのことは、このような私ではだめだ、往生できるはずがないと思う人に《こそ》お話申し上げるのです、と親鸞さまはおっしゃっています。それは、はじめて仏法に触れた人がわが身心の悪を思い知る経験をするということが前提条件となっています。同じお手紙には、「仏のみ名を聞き、煩悩まみれの身であるからといって、どのようにでも心のままにすればよいということではありません」、「念仏を申して久しい人は、この身心の悪を厭い捨ててゆこうという〈しるし〉があるはずです」と、自己肯定を否定してしまうことを否定して、本願を信知し、否定的自己を受容した者の生き方を示されています。

 最後に、お寺の現場では、わが身わが心の悪をも知らず、こんなことでは往生できないと思ってもいない人に対しても、阿弥陀さまが沙汰せずお迎え下さることだけを説き、酔いもさめていない人に酒を勧めることになってはいなか心配することです。
                                      (『寳章』号41号 2017年6月)
     「〈今・ここ〉を聞く」―真宗カウンセリングJ―      

 「本を読んで理解しただけでは自転車には乗れません。カウンセリングも同様、人の話を聞くことも練習しなければできるようにはなりません。」松岡宗淳先生の言葉に触発され、二〇〇四年にミニカウンセリングの実習会「みみずくの会」が発足しました。

 ミニカウンセリングとは、野球にたとえると、カウンセリングが九回の試合本番なら、ミニカウンセリングは三回までの練習試合でしょうか。二人一組で聞き役(カウンセラー)と話し役(クライエント)になり、一回十五分ずつ行います。そのやり取りを録音し、全部文字化して逐語録を作成、検討、学習してゆきます。これにより、カウンセラーに必要な基本的態度について、一応のことは学べるといわれています。

 聞き手は、まずは相手の話し言葉をそのままつぶやく練習をします。馬鹿らしく感じるかもしれませんが実際にやってみると、話し役の「今・ここ」の心の動き、いのちの流れに、よりスムーズに近づくことができるようです。仏教でいう「同事」の教えです。人びとを救う四つの手立て(四摂法)の一つで、同じ事をし、同じ立場に立つのです。

 また、聴聞は「かどを聞け」といいますが、カウンセリングにも聞くべき「かど・要」があります。事柄よりも話し手の感情、身体感覚などを表す言葉を大事に聞いてゆきます。また、一見関係ないようなよその話や他人のうわさ話も、実はどこかで「ここ」「私」の気持ちにつながっています。また、昔話や将来の話も、必ず「今」、現在の気持ちにつながっているのです。色々な話を通じて、その人の「今」「ここ」の心の動き、いのちの流れを感じ、聞き取ることが大切です。

 と、書くのは簡単ですが、実際の私は、何度練習してもすぐに忘れ、地金が出てしまう落第生です。そんな私ですが、先日、勉強してよかったと心から思うことがありました。 

 月参りで毎月お会いするAさんは、子供の頃お母さんに連れられてお寺に行った話をよくしてくれます。小さい頃から身体が弱く、お寺で灸(やいと)を据えてもらっていたのだそうです。そして、「それも毎日なんですよ、母は毎日お寺、ずっとお寺に浸(つ)かっていたんです。」という具合です。

 ご存知かもしれませんが、真宗門徒は「家に神棚を置かず、病んで祈祷せず(『芸藩通史』)」、お札をもらわず医者にかかったため、真宗寺院の多い地域は医者が多く、お寺もお札を売らないかわりに施薬や傷病の治療をしていたといいます(有元正雄『真宗の宗教社会史』)。拙寺も以前は「やけど薬」を売り、信楽峻麿先生のお寺は「目薬」だったと聞いています。Aさんのお寺は「お灸」だったのでしょう。

 このように、最初は興味津々で聞いていましたが、何回か聞くうち、聞き流してしまうようになりました。そしてその日、毎月同席されているBさんが、私に気を遣って「いつも同じ話をしてすみません。」と言われました。私は迷惑でも何でもなかったのですが、そのひと言から不意に、故西光義敞先生の言葉が甦ってきました。

 「年をとると同じ事ばかり言うようになります。でも、いつも同じ事を言っているように聞こえても、話している方の気持ちは毎日違っていて同じでありません。そこをしっかり聞かせてもらうことが大切です。」と。

そのことで私は、またもや学んだことをすっかり忘れ、自分の興味本位でAさんの話を聞き、関心がなくなったら聞き流してしまっていたことに気づかされました。同時に、Aさんが今日も聞かせてくれた昔話は、もしかしたら何かをお伝えになりたいのかもしれないという思いが湧いてきました。そこで、

 「お母さんに連れられて毎日お寺に行かれたことを思い出されて、どんなお気持ちで今お話し下さったのか、よかったら聞かせてもらえませんか?」
と尋ねてみました。

すると、Aさんは一呼吸間をおき、涙声になり、
「お寺にお参りしたいんです!」
と訴えられました。

「えっ。」
驚いたことに、表明された「今・ここ」のAさんは、「お参りしたいんです!」と涙ぐんでいるAさんでした。

言われてみると確かに、以前はよくご法座にお参りになっておられましたが、最近はお寺から遠のいていらっしゃいました。つまり、Aさんの昔話は、お母さんとお参りしていたころを懐かしみながらも、同時にお参りすることができなくなってしまった悲しみと、また昔のようにお参りしたい思いの、どうにもおさまりのつかない今の気持ちを話しておられたのです。

 あれだけ何度も話してくださっていたのに、私は全然聞いていなかったことを本当に申し訳なく思うとともに、聞かせてもらってよかった、本当のAさんに出値(あ)えた気がしました。全然身につかないわが身を情けなく思いつつ、聞けてよかったと心から思ったことです。

 「みみずくの会」は、毎月広島別院で行われています。
                                      (『寳章』号40号 2016年6月)
         「居所を聞く」−真宗カウンセリングI−     

 私が僧侶になりたての頃、法事でいっしょにお経をあげない人がいると、「この人はご門徒なのにど うしてこんな態度なのか」と腹を立てていました。当時の私は、「ご門徒であればみんな真面目にお経をあげて当然だ」と思っていました。もちろんそれは、昔も今もその通りなのですが、あちこちお参りしてみるうちに、ご門徒といえど色々、み教えを大切に思っているご門徒もあれば、名前だけで仏法に は全く関心がないご門徒もあるのだということが分かってきたのです。

今思えば当たり前のことですが、当時の私は、ご門徒というだけでこうあるべきだと勝手に決めつけ、会って話したこともない人がその通りでないと、「けしからん」と腹を立てていたのです。

 このように、相手を生まれや肩書きなど、周囲の諸条件で外側から客観的に理解しようとする態度を 「外部照合枠による診断的理解」といいます。「広島の出身(安芸門徒)」だとか「ご法義な(篤信な )○○さんのご子息」という条件で「この人は仏法に好意的であるにちがいない」と判断したりする態 度です。それに対して、相手の心の内側に入って、相手の物の見方、そこから感じている感じを、そのまま共有しようとするような理解の仕方を「内部照合枠による共感的理解」といいます。

ご門徒とはいえ、仏法に関心のない親に育てられて、今まで一度もお仏壇に手を合わせたこともない人にとっては、 初めて会うお坊さんに「お経をあげないなんてけしからん」と腹を立てられても寝耳身に水、「このお坊さんこそエラそうで失礼だ」となるわけです。真宗門徒としてそれで良いか否かはこちらが勝手にいうのであって、そういう診断的な思いはしばらく横に置いておいて、相手は初体験のお経についてこう 感じているんだなと、相手の「居所」を聞く、理解しようとすることをいうわけです。
 
 西光義敞先生は、真宗カウンセリングを、真宗者と非真宗者によって三タイプに分類します。(註@ )浄土真宗の教えに全く関心がない非真宗者に対し、教えを大切に思っている真宗者が関わるのをA型 、真宗者が真宗者に関わるのをB型、最初は非真宗者であっても、真宗者との関わりの中で教えに対する関心や要求が高まった人とのカウンセリングをC型と定義します。

西光先生の真宗カウンセリングは、カウンセラーが来談者を診断し治療するのではなく、来談者のありのままを尊重する来談者中心のカウンセリングです。ですから、仏法に関心のない方とのA型の場合、相手の気持ちを無視してカウンセラーの方から仏法の話をすることはありません。その意味で真宗カウンセリングは宗教行事・布教伝道と同じではありません。
 
 しかし、お仏事などの宗教行事・布教伝道の場においても、相手の内部照合枠によって居所をしっかり聞き、理解することは極めて大切であると思います。

また、A型B型C型という概念は、お仏事が「どのような場であるか」を見分ける基準を提供してくれます。外見は同じ「浄土真宗の仏事」「参詣者はご門徒」であっても、実質的には色々、「非真宗者がほとんどで、少しだけ真宗に関心があるC型」というふうに、対機説法としてのひとつの形を教えてくれるように思います。

居所を理解しようとしなかったり、どのような場であるかを把握し間違えたりすると、お互い情けない思いをせねばなりません。相手の居所がちゃんと理解できれば腹も立ちませんし、対応もそのように変えてゆけるのではないでしょうか。

 実は昨年、私の恩師信楽峻麿先生がお浄土にお帰りになりました。知人が、私のことを心配していろいろ言ってくれたのですが、私が感じたのは「申し訳ないけどそうっとしておいてほしい」ということでした。また、お通夜の席で「それはこういうことなんだよ」と、死やお別れの意味付けをされても、「待ってくれ、まだお別れしたばかりなんだから、勝手に話をまとめないでくれ」と、とても心がついて行きませんでした。特に関係の薄い人に言われると、「あなたに何が分かるというのか、分かったようなことを言わないでくれ」と、腹さえ立ちました。

 考えてみると、他人のことではなく私自身が、お通夜をはじめ色んな場所で、分かったような顔をして、「触らないで」と思っている人の絆創膏を無理やりはがして傷口をえぐるようなことをしてきたように思います。この場を借りてお詫び申し上げます。

しかし、さらに申し訳ないことに、そんな思いを経験したら他人に対して無神経なことを言わないようになれるかというと、残念ながらそう簡単にはいきません。仏教によると自利(自分の苦しみの解決)と利他(他者の苦しみの解決)は別の智慧だそうで、また、知識があれば自転車に乗れるかというとそうはいかないのです。

 カウンセリングは一般に、社会や人間関係の中で、どう適応して生きてゆくかに関わっていきます。(註A)「身体も心も健康なつもりだけれど、夫とも姑とも上手くいかない」「気分が沈んで何もできない、お医者さんに診てもらったけれど別に病気ではないと言われた」、このような環境に適応できない私が上手く生きてゆけるようになる、適応してゆくための精神的な援助をしていきます。

一方で、このような問題をかかえた人も、またそうでない人も、「私とは何か」「私はどこから来てどこへ行くのか」という人間にとって非常に大きな問題、根源的・本質的な問いを実は抱えていて、そこへの応答・ 解決には、長い歴史の中で宗教が大きな役割を果たしてきました。

 「スピリチュアル」「スピリチュアリティ」という言葉をご存知でしょうか。元々キリスト教に起源
をもち、今日では終末期医療やWHO(世界保健機関)の「健康」の定義等において注目されて、「いのち」「たましい」など幅広い意味で使用されている言葉です。終末期の場面のみならず「健康」への取り組みにおいても「身体的」「精神的」「社会的」な側面に加えて「いのち」「たましい」というレベル、「精神」よりもさらに深いレベルでの関わりの重要性が注目されています。

 わが子の進路を考える時に思ったのですが、どんな学校に行ってどんな仕事するのか、高校生ともなると親の希望や助言を素直に聞いてはくれません。ではどうしたいのか尋ねても「よく分からない」といいます。親子どもども悶々とした時を過ごしました。

「将来どんな学校に行ってどんな仕事をしたいか」という問いは、実はその奥に、「私は自分の人生をどう生きるのか」、もっというと、「何のために生まれてきたのか」、「どこへ行こうとしているのか」という、とても深くて大きな「いのち」の問いがあって、本人は意識していなくても、実はそこに向き合おうとしているのだなと感じたことです。

その時の茫漠たる不安感は、まさにその深淵に立っているところ(居所)から来るものだと感じました。入学や就職が決まるとうまい具合に忘れてしまうのですが、何かあるとひょっこり顔を出す「いのちの」問いです。宗教やスピリチュアルケアは、この「いのち」レベルの問いに応答することを課題としています。(註B)


註@ 西光義敞『育ち合う人間関係』
註A 河合隼雄『河合隼雄のカウンセリング講座』
註B 窪寺俊之『スピリチュアルケア学序説』、諸富祥彦『スピリチュアルカウンセリング入門』

                                      (『寳章』号39号 2015年6月)
    「真実心」と「自己一致」−真宗カウンセリングH−   

 「お坊さんは怒らないのですか?」
 ある勉強会での質問です。そんな顔したお坊さんが多いのでしょう。
 
 信楽峻麿先生は、「私は十八歳で戦争に行った。たくさんの人が死に、同級生も殆ど死んだ。誰が責任をとったか。戦後七十年、私は問い続けた。しかし教団は何もなかったことにしようとしている。特に昨今の政治、これがヘラヘラ笑うておられますかいな。」と、真剣に怒りをあらわにされ、「仏法を学ぶとは、本当を生きていくということ。人生はどこかでは妥協も必要だろう、しかし、決して妥協してはならないことがあると思う。」と応答されました(取意)。

 釈尊は最晩年、弟子の阿難尊者に対して、
自らを島とし、自らをたよりとして 他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
                 (『大パリニッバーナ経』中村元訳『ブッダ最後の旅』)
と、いわゆる「自灯明法灯明」の教えを説かれました。「他人をよりどころとせず」とは、他人の意見も大事だが、他人は結局私の人生には責任をとってはくれない、他人を根拠にし、依存して生きてはならないということでしょう。

また「自らをよりどころとする」とは、これほど頼りにならない私をよりどころとせということではなくて、私の身心の底から響いてくるいのちの声を、ごまかさずよく聞いて、それを人生の中心に据え、本当の私を自立して生きてゆけ、納得した人生にせよということでしょう。

 臨床心理学者C.ロジャースは、「真にあるがままの自分になる」とは以下のような方向性を持つものであるといいます。
@他の人を喜ばすために自分を型にはめるのをやめる。
A自分の進む方向は自分で決められるようになっていく。
B自分の経験に開かれ、自分が今何を感じているかに気づくようになっていく。
C結果ではなくプロセスそのものを生きるようになる。
D他人をもっと受け入れるようになっていく。
上記は一部ですが、釈尊の教えにかなり重なっているように思われます。仏教もカウンセリングも「依存」から「自立」へ、ありのままの自分を生きてゆけるようになることを大切にしようとしていることが分かります。特に「生きる意味」に苦悩する現代人にとって、ロジャースがBで指摘した「自分自身に気づけるようになること」や釈尊の「自灯明」の教えの大切さを思うことです。

 さて、法然聖人は、善導大師を受けて次のように言われます。
眞實といふは内外相應の心也。身にふるまひ、口にいひ、意におもはん事、みな人めをかざる事なくまことをあらはす也。(『往生大要抄』)
これによると、真実とは身(行動)と口(話す)、意(心に思うこと)の三業において、人目を飾らず内外相応してまことをあらわすことですが、実はカウンセリングも同様に、内外の一貫性を極めて大切にします。経験(内面)と意識(その経験に気がついていること)、そして伝達(それを他者に伝えること)における一貫性です。それを「自己一致」「純粋性」と呼んでいます。しんどいけど(経験○意識○)とても言えない(伝達×)など、一貫性が保たれていない状況を不一致といい、それは不適応(環境・状況・条件などに適応できないこと)をもたらすといいます。

 法然聖人は、この真実心(至誠心)について、
熾盛心と意得て、勇猛強盛の心ををこすを至誠心と申すは、此釋の心にはたかふ也(略)各々の分につけて強弱の真実の心をおこすを至誠心となづけたる
                                       (『往生大要抄』)
と、至誠心(真実心)とは、燃え上がる盛んな心で皆一様に内外相応せよというのではなく、強弱の個別性を認めておられます。そして、
外も内もありのままにて、かざる心のなきを至誠心となづくる
                              (「おほごの太郎への御返事」)
と、ありのまま(弱い心は弱い心のまま)飾らないのを至誠心だと言われます。自分を偽って見せかけようとしない心ということでしょう。

 しかしそれは、「心のままにふるまふがよきと申すにてはなきなり(『往生大要抄』)」と、心のままにまかせてよいということではない、「真実と言いつくろっても度を超えて節度がないこともある(同書岩崎訳)」と指摘されます。

これはカウンセリングでも同様で、西光義敞先生によると「いいたいことをいい、したいことをするのが純粋性・自己一致だとかいうことでは、決してありません。ありのままの自分になるということの意味を浅く、あるいはゆがめてとらないで、よくよく掘り下げて考えてみたいものです。」(『育ち合う人間関係』)とのことです。

 法然聖人は、「内の心のまこと」を大切にされ、「外をはとてもかくてもあるへき也(外は臨機応変で良い)」(『淨土宗略抄』)と言われます。しかし外はどうでもよいのではなく「譏嫌戒」として「人に悪く言われるようなことはやめよう(『往生大要抄』岩崎訳)」と言われます。ただ、それも「内心のまこと」が破れるまでふるまうと「至誠心かけたる心になりぬ」(『淨土宗略抄』)と、「内心のまこと(との一致)」を大切にされます。さらに「人目評判を気にしていると、心を静める目的が後回しになって至誠心ではなくなる(『往生大要抄』岩崎訳)」等々、あるがまま・内外一貫した飾らない心(生き方)を、関係性の中で詳細に示されています。

 さて、話を最初に戻すと、信楽先生はありのまま怒りを表現されただけではなく、同時に「しかしワシはこのことを徹底的に問い続けてきた」ともおっしゃいました。「怒り」に正直に向き合いながら、それを法の鏡に映し続けててこられた(法灯明)ということでしょう。

 最後に、親鸞聖人は「真実」について、
シン(真)トイフハイツワ(偽)リヘツラ(諂)ワヌヲシン(真)トイフ 
シチ(実)トイフハカナラスモノ(物)ゝミトナルヲイフナリ(『浄土和讃』左訓)
と、真実(に生きる)とは、「嘘をつき、お世辞を言ったりご機嫌とりをしないこと」と言われます。そしてまた真実(に生きる)とは「かならず物(生きとし生けるもの)のみ(身・実)になること」だと言われます。先に見たロジャースのDとともに味わいたいと思います。
                                     (『寳章』号38号 2014年6月)
          念仏を感じる−真宗カウンセリングG−   岩崎智寧

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと(略)いかにと候ふべきことにて候ふやらん(以下略) 

 これは『歎異抄』第九条で、唯円房が親鸞さまにした質問です。念仏申しつつ暮らしているのですが、躍り上がるような喜びを感じることができません。お経には「かの仏の名号を聞くことをえて歓喜踊躍して乃至一念せん」(『無量寿経』)と、「阿弥陀如来の名号を聞いて歓喜踊躍する」と示されているのに、いったいどう考えたらよいのでしょうか、という質問です。 

 ここでは、念仏申すという行為を通して感じるはずの「躍り上がるような喜び」、カウンセリングでいうところの「身体感覚」が問題になっています。唯円房の実感としてはそれは「おろそか」(粗略・不十分)にしか感じられないというのですが、皆さんのお念仏はいかがですか?念仏のいわれも聞き、理屈も分かっているつもりだけれど、実感のところでしっくり来ないということはないでしょうか。 

 浄土真宗は機( ≒人間)を問題にしてはいけないと乱暴に切って捨てる方もいらっしゃいますが、この第九条は、念仏申す者の実感が中心テーマになっていて、それに対する親鸞さまの丁寧な応答が印象的です。 

 さて、この「感じ」について、臨床心理学者ユージン・ジェンドリン(1926−)は、「〈感じ〉は未だ言葉にならないようないろいろな意味を含んでいる」といいます。私たちが漠然と感じている身体的な「感じ」は、実は大切な意味を含んでいて、それが語ろうとしている意味にうまく気づいてゆくと、私たちは今よりも深く豊かに変わってゆくことができるといいます。 

 たとえば、少し心を静かにして、私の身体に注意を向けてみると、私は胃に少し重く若干の痛みを感じていることに気がつきます。今まで原稿を書くのに必死で気づいていなかったその痛みに対して、そっと見守りながらともにいると、痛みが伝えてくれます。「もう押しつぶされそう。『宝章』もうまく書けないし、それどころかもう五月なのに四月の仕事も終わっていない、どうしよう。」と。注意を身体に向けるまで、私は原稿に集中していたので、自分が胃が痛くなるほどストレスを感じていることに気がついていませんでした。「胃の痛み」という身体的「感じ」は、今まで気づいていなかった私、押しつぶされそうになって追い詰められている私がいることを教えてくれます。

 私たちはこのような「感じ」にいつもうまく気づけるわけではありません。忙しい時、頭に来ている時、失敗したことを繰り返し悔やんでしまう時、等々、部分的な体験を自分と同一視している場合です(同一化)。また暴力をふるわれたりして受けた痛みや恐怖、不安など心の傷(トラウマ)がある時は、人は心に蓋をしてしまい、感じることを拒絶してしまいます(解離)。 

 親鸞さまは、

鸞もこの不審ありつるに(私親鸞も唯円房と同じ不審がありましたが)
唯円房おなじこころにてありけり(唯円房も同じお心だったのですね)

と、同じく「おろそか(不十分)」に感じた経験があったことを明かされ、それに蓋をしたりせず、「よくよく案ずれば」と応答されています。 

 親鸞さまのこのような態度は、フォーカシング指向心理療法のいうプレゼンスにあたるのだと思います。プレゼンスとは「存在の状態」を意味し、「〈感じ〉を見守りながらともにいること」「〈感じ〉が変化するプロセスに対して促進的に存在していること」または「何ものにも左右されない俯瞰的な見方」とも説明されています。 

 親鸞さまは、その「感じ」は、自分の中にある煩悩がそうさせているのだと見てゆかれます。

よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは
(当然喜ぶはずの心を抑えて喜ばせないのは)、
煩悩の所為なり(煩悩のせいである)。
久遠劫よりいままで流転せる(永遠の昔から現在まで迷い続けている)
苦悩の旧里はすてがたく
(住み慣れたこの世は悩み苦しみばかりなのに捨てがたく)、
いまだ生れざる安養浄土は
(まだ生まれたことのない浄土は安らかな世界であっても)
こひしからず候ふこと(恋しいとは思えないことは)、
まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ
(本当によくよく煩悩が激しいからでしょう)。

と、苦しみを握りしめ安らかな世界を願うことを阻害する心、そういう心が自分の中に激しく燃えていることに気づいてゆかれます。唯円房は、「おろそか」な感じで止まってしまいましたが、親鸞さまはそれを煩悩だと見てゆかれました。そう見ることを可能にするプレゼンス(本願まこと)に親鸞さまが立っておられたからでしょう。 

そして、

しかるに仏かねてしろしめして(ところが、仏はそのことをあらかじめご存知で)
煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば
(煩悩を全て持った凡夫のためとお示しになっているので)、
他力の悲願(阿弥陀仏の本願)はかくのごときのわれらがためなりけりとしられて
(仏の名を聞いたぐらいでは喜ばない私たちのためであったんだなあと分かって)、
いよいよたのもしくおぼゆるなり
(ますます頼もしく思えるのです)。

と思いは進み、

よろこぶべきことをよろこばぬにて
(当然喜ぶべきことを喜ばないことによって)、
いよいよ往生は一定
(いよいよ往生は決定している)

という結論に至ります。 

 親鸞さまは、念仏申す実践を通して感じつつある身体感覚に上手く気づき、その感じに蓋をせず静かに見守ることを通して、それまで気づかなかった自身の煩悩と出遇い、それをもとにいよいよ確かに本願に出遇ってゆかれたわけです。「おろそか」な感じは「おろそか」なまま「頼もしい」「往生は一定」へと変化しました。

【参考文献】

 ユージン・T・ジェンドリン『フォーカシング』
 アン・ワイザー・コーネル『フォーカシングニューマニュアル』
 土江正司『こころの天気を感じてごらん』
                                      (『寳章』号37号 2013年6月)
          よき人と援助者−真宗カウンセリングG  岩崎智寧


 昨年(2011年)は、真宗カウンセリング研究会創立五〇周年でした。記念交流会に参加した私は、全国から集まった諸先輩方から、真宗カウンセリングとの出会い、―それはつまるところ、真宗カウンセリングの提唱者である故西光義敞先生との出会い―について聞かせてもらいました。

その内容は、残念ながら守秘義務があってご紹介できませんが、それはあたかも親鸞聖人が源空聖人に出遇って自力を捨てて本願に帰し、また山伏弁円(明法房)が親鸞聖人に出遇って修験道を捨てて念仏に帰依したような、それぞれの方のその後の人生を決定づけた、それはそれはすばらしい出会いの体験談でした。

 そんな出会いとは対照的に、私はその少し前、自坊にお参り下さったAさんと残念な「すれ違い」を経験していました。Aさんは、「私は正直、神仏を拝んだからって幸せになれるとは思っていません。自分が努力する以外に何があるんですか?この厳しい現代に私は生き残るだけで精一杯です。」と険しい表情で言われました。

「そんなことないぞ」という思いが私の中に湧いてきました。いつもの私なら、すぐさまその思いを伝え反論したかも知れません。しかしAさんは、実は幼い頃から色々と苦労された方だということを聞いていましたので、Aさんのその言葉は、Aさんの孤独な人生のつらさと重なって私に響いてきました。

―そこでお坊さんとしてひと言―。何か気の利いたことでも言えたら、少しは真宗やカウンセリングを学んだ所詮もあろうというものですが、結局大したことも言えず、残念ながらすれ違ったままお別れしてしまいました。 

 そのことがあっただけに、このたびの交流会で聞かせてもらった、諸先輩が出会った時の西光先生の態度や、その時話されたひと言はそれはそれは見事なもので、目からウロコが落ちるような思いで聞かせてもらいました。また同時に、私のAさんへの対応がいかに粗末であったかにも気づかせていただきました。

 西光先生は、弁円と親鸞聖人の出会い(『御伝鈔』『註釈版』1055頁)について、「カウンセリングの極致ではないか」(『仏教とカウンセリング』217頁)と絶賛されています。

カウンセリングでは、相手が悩みを乗り超えたり、建設的な人格変化が起こるための必要十分な六つの条件(『ロジャース選集』上265頁)、一般に「受容」「共感」「一致」の三つを大事にしますが、親鸞聖人の弁円に対する態度はみごとにそれらに合致しているといわれています(西光義敞編『援助的人間関係』71頁)。

 すなわち弁円は、親鸞聖人に救いを求めて来たのではなく「害心をさしはさんで(危害を加えようと)」聖人のお住まいを訪ねて来たのですが、聖人は「左右なく(ためらわずにすっと)」出て来られてお会いになりました。

弁円は「尊顔に向いたてまつるに(そのお顔を見ていると)」「害心」が「たちまちに消滅」したとあります。あまつさえ(そればかりか)「後悔の涙」が「禁じがたし(ボロボロとこぼれた)」ということです。

聖人は、自分に危害を加えに来たことに気づかずに「左右なく」出てゆかれたのかもしれませんが、弁円の様子を見て顔つきが変わったのでは「害心たちまちに消滅」ということにはならないでしょう。そうさせる表情や態度とは、またその底にあるお心とは、いったいどんな心なのでしょうか。

そして「ややしばらくありて」とあります。弁円が泣いている間、きっと何も言わずに付き合って待っておられたのでしょう、弁円は「ありのままに宿鬱(つもりつもった思い)を述す(打ち明けました)」。弁円は心の底にあるものを「ありのまま」に言葉にしてゆきます。不一致の弁円が一致してゆくプロセスです。

 この一致とは、経験と意識(その経験に気がついていること)が正確にあい応じていることをいいます。弁円にとって意識は親鸞聖人に対する怨み・害心でしかありませんでしたが、その後聖人の態度によって心を開き、見つめていったのは、心の底にあった宿鬱(つもりつもった思い)でした。

本当はそこを経験しているのに意識できていない、また意識しているものと食い違っている状態を不一致といいます。この一致の概念は、カウンセリングの本質中の本質とされていて、カウンセリングではカウンセラー(援助者)が、ここでは親鸞聖人自身が一致できているか否かが、人格的変化には大切な条件なのです。

 弁円の宿鬱を聞いた聖人は「またおどろける色なし」、ふんふん、そうかそうかと、そのままを受け取られたのでしょう、ロジャースのいう「受容(無条件の肯定的配慮)」と「共感(共感的理解)」です。これらの条件を深いところで満たしていたので劇的な人格的変化が起こったというわけです。

弁円が泣いている間、また宿鬱をポツポツと語り始めた時に、親鸞聖人が「めそめそせずに言いたいことがあるならさっさと言え」という態度だったら、このような人格的変化は起こらなかったことでしょう。

 以前の私は、西光先生の話を半信半疑で聞いておりました。しかしこのたび諸先輩の出会い体験を聞いたり、自分自身の西光先生との出会い(『宝章』34号参照)を思い出すにつけ、作り話ではない、十分起こりうる話だと思うようになりました。そのすばらしさや、逆に私の現場での態度のお粗末さを思うにつけ、仏道における「よき人」との出会いの持つ意味の大きさ、援助者の態度の重要性を感じることです。

ただ、仏道においてもカウンセリングにおいても主役は当事者自身であり、特に仏道においては、主体的な求道・念仏ぬきに他人が解決できるものではないことを忘れてはならないと思います。
                                    (『寳章』号36号 2012年6月)
       共に感じる ―真宗カウンセリング D      岩崎智寧
 
 最近、お通夜や葬式の最中に私語が聞こえるようになりました。昔はなかったことです。ひどい時には笑い声がします。目の前でご遺族が泣いているにもかかわらずです。とても人の死に接する態度とは思えません。葬儀社の方が注意すると「何様だと思ってるんだ」と言われたとか。ここは僧侶の出番と思い、式の始めに、「遺族の方のお気持ちを考えてよろしくお願いします」とお話をしました。残念ながら効果はゼロ。一体どうしたものでしょうか。

 二〇〇四年九月の台風は大型でした。私の住むお寺の境内には大きな楠があるのですが、強風でその枝が、それも結構太いのが何本も折れてしまいました。次の日、そこに巣をしていたカラスでしょうか、羽を怪我しているようで、片方の羽を伸ばしたままひょこひょこと歩いていました。飛べないのできっと怖いのでしょう、境内の隅から隅へ、スパイか忍者のように移動していました。次の日(ここから先は、お寺の掃除をしていた方に聞いた話です)、楠の根元に隠れているそのカラスに、もう一羽のカラスがずっと寄り添っていたそうです。何時間もいっしょにじっとしているので、気になって時々見ていたそうです。すると、どちらか片方のカラスが、突然、「カア」と一声鳴いて、それを合図に、飛べなかったはずのカラスが、なんと飛んだのだそうです。近くの電線には他の仲間も数羽見守っていて、ひとまずその電線に留まり、その後、皆でどこかへ飛んで行ったということでした。何だか心暖まる話ですね。

 高い知能を持つ動物には、「共感する力」があるそうです。「共感」とは、C.ロジャースによると、相手の感じている「怒りや恐怖や混乱を、あたかも自分自身のものであるかのように感じと」ることです。お葬式でいえば遺族の「悲しい」「つらい」感じ、カラスで言えば「痛い」「怖い」感じを、自分自身のものであるかのように感じとる、共に感じる、感じを共有するのです。これは、「視若自己」(『無量寿経』)諸の衆生を自己のごとく視そなわす、まさに仏さまの心です。

 「悲しい」「つらい」「怖い」といった心が、だんだん良い状態に変わってくる、建設的な人格的変化が起こるには、周囲の者が裏表のない態度で接し(一致)、心から相手を大事にし(受容)、相手の気持ちを深く理解しようとする態度(共感)が続くとそうなってくる、というのがカウンセリングの基本です。私は、もしかしたら、ずっとそばにいたカラスや、電線から見守っていたカラスの心(態度)が、怪我をしたカラスに飛ぶ気持ちを起こさせたのではないかと思うことです。

 これは長男が小学生の頃の話ですが、長男がパソコンに向かって仕事をしている私のところにやってきて、今日学校であったことを話し始めました。聞くと、運動会が近いらしく、毎日リレーの練習をしているということなのですが、どうも毎回抜かされるらしく、それがいやで、学校に行きたくないと言うのです。
 人の話を聞くときは「気持ちを聞く」ことが大事(『宝章』復刻三〇号参照)、というのは頭の中にあったので、「女の子に抜かされるのがいやなんだな」「学校に行きたくないんだな」と相づちを打ちました。息子の反応は意外なものでした。「もういい、お父さん聞いてないもん。」そう言って悲しそうに仕事場から出て行ってしまいました。
 そう言われて初めて気づいたのですが、私の相づちは、言葉こそ息子の「気持ち」を繰り返しはしていたものの、心は上の空、顔はパソコンの方に向いたままで、自分の仕事に集中していました。息子の気持ちを「自分自身のものであるかのように感じる」などとはほど遠い聞き方でした。

 私は以前、真宗カウンセリングの提唱者である故西光義敞先生に話を聞いて頂いたことがあります。先生はご自坊の奈良から広島別院に講演に来ておられました。私は、当時かなり切羽詰まっていて、約束もせずにいきなり講師控え室に押しかけて行って、自分が長い間感じている孤独感や、また、どうしてよいか分からない自分について訴えました。先生は私と正対して、私の目をしっかりと見つめて聞いてくれました。その目はとても真剣でした。そこでのやりとりは省略しますが、私はその先生の目がとても印象に残っています。極端な言い方ですが、「人は眼だけでもで救うことができるんだ」と思えるほどの目差しでした。私の苦しみを他人事にせず、いきなりやってきた若造を本当に大事にしてくれている目差しでした。

 共感とは、人に接する時の態度、姿勢です。しかし大切なのは、黙って傍にいる、目を見るとか、正対して聞く等の行為よりも、その元になっているもの、奥にあるものです。相手の苦しみを他人事にせず、共に感じ、本当に大事にしようとする真剣さ、そうしようとする人間性です。つまるところそれはその人の人格と言っても過言ではありません。それは、私たちが日常、他人に対してどう考え、生きているのかという生きる姿勢、人生観が深く関わっていることだという気がしています。

 ロジャースは、さらに厳密に共感を定義しています。それは「自分の気持ちがその中に巻き込まれないようにすること」だと言うのです。自分が似たようなつらい経験を持っていると、それが心の前面に出てしまい、自分の気持ちなのか相手の気持ちなのか区別がつかなくなります。「よく分かるよ」と言って涙しても、聞いているのは往々にして自分の経験の方で、相手の本当の気持ちは推測しているだけてちゃんと聞けていないわけです。刻々と湧き上がってくる自分の気持ちに敏感に気づき、ひとまずそれは横に置いて相手の気持ちを正確に聞くこと、自他を分別しながらも、自分のこととして感じる、それはまさに「自他不二」の心、仏さまの「無分別智」の心です。
  親鸞聖人のアサーション―真宗カウンセリングC―    岩崎智寧

 電車に乗ろうとして並んでいると、誰かが割り込んできたとします。あなたならどうしますか?

「後ろに並べと言って蹴っ飛ばす」
「言えないけれど睨み付ける」
「黙って下を向く」等、色々ありますね。

アメリカの心理学者は、このような対人的態度、人間関係の持ち方には、大きく分けて三タイプあると言っています。

一つ目は、自分のことだけ考えて、他者を踏みにじるタイプ、二つ目は、自分よりも他者を常に優先し、自分のことを後回しにするタイプ、三つ目は、自分のことを大切にするけれども、他人にも配慮するタイプです。

 「黙っている」のは、もめごとが起きないのでいいようなものですが、後で悔やんだり、本当の自分を大事にできていないともいえるのではないでしょうか。また、「蹴っ飛ばす」のは、本人はスッキリしますが、相手はたまったものではありません。

自分の気持ちも他人の気持ちも大切にしながら、率直に自己表現するコミュニケーションをアサーションといいます。私は、『歎異抄』第二条の親鸞聖人の対人的態度は、見事なアサーションだと思うのです。

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

■よく聞く・正確に言い直す

 このご文の場面は、私の解釈では、

「みなさんが、十余りもの国境を超えて、尋ねていらっしゃったおこころざしは、ただひとすじに往生極楽の道を問い聞こうとするためですね。」

と、親鸞さまがまずは相手(お弟子)の発言を最後までよく聞かれ、そしてそれをもう一度言い直して、ご自身の理解で間違いないか確かめておられるのだと思います。

最後の「とひきかんがためなり」は、直訳すると「問い聞こうとするためです」になるのですが、親鸞さまが実際話された台詞としては、関東から訪ねてこられたお弟子たちの気持ちについて、「あななたちはこうだ」と断言するというのはちょっと不自然な気がします。きっと「こういうことですね」と気持ちを確認されたのではないでしょうか。

 私たちは、この確認をせずに、つい自分の気持ちを先に伝えてしまいます。しかしこれを忘れてしまうと、夫婦ゲンカの場面なんかでも「お前のそこがオカシイ」「私そんなこと言ってないわよ」「言ったじゃないか」「言ってません!」という情けない水掛け論に終始してしまうことになります。

まずは話を最後までよく聞いて「こういうことですね」と正確に言い直す、相手が「そうです」と満足したら初めてこちらが話す、というのがアサーションのルールです。


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然聖人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

■私メッセージで話す

 相手の気持ちを確認した後、親鸞さまは、

「この親鸞においては、〈ただ念仏して弥陀に助けられ申し上げよ〉と、よき人(法然聖人)の仰せをいただいて信じている、ということの他に特別な訳があるわけではありません。」

と、ご自身のお領解を話されています。初めに紹介した一つ目のタイプの人だと、きっとお弟子に「往生極楽の道とはな」と、上から目線で発言するのでしょうが、親鸞さまは「親鸞におきては」と切り出されています。

この言葉について、私は、親鸞さまが「あなたは違うかもしれないが」「私は間違っているかもしれないが」という所に立って、ご自身の立場を相対化することができておられるのだと思います。

私たちは、ともすると「聞いた」「学んだ」という自信、「私は間違っていない」という自己絶対化の上に、相手を決めつけ評価したりします。また、無意識のうちに「皆同じでなければならない」「違うのは許されない」という所に立って、他人が自分の思うようにならないと腹を立てたり落ち込んだりしますが、親鸞さまは、そこを超えたところに立っておられるのだと思うのです。

 「親鸞におきては」と、主語を「私」にする表現手段は、「私メッセージ」といいます。主語を相手にして「お前は間違っている」と言うと、言われた方はカチンと来てケンカになりますが、「私は納得できない」と言うことができれば、夫婦ゲンカもかなり減るのではないでしょうか。


法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと。

■言いっ放しにしない

 親鸞さまは最後に、お弟子達に、「このことを聞いた上は、念仏を選んで信じさせていただくのも、また捨てようとも、皆さんのご自由です。」と結ばれています。「私はこの道を行きますがあなたはどうされますか?」と、どこかではとても冷たい、厳しい主体的決断を迫るような言葉です。

しかし、ただ単に「勝手にしなさい」と冷たく切り捨てておられるのではなくて、「結局のところ愚かな身の信心では以上の通りです。」というところまで、長々とご自身のお領解を述べ、「法然さまがおっしゃるっことがまことならば、親鸞が申すことも、また同じように事実無根なことではないのではいでしょうか」と、言われるお言葉からは、自信とともに、どこかではとても暖かく、やさしいお弟子への配慮が感じられます。

 また、自分の領解を言いっ放しで終わらせず、最後にもう一度お弟子の気持ちに心を戻されています。自分のした発言について、もう一度相手に「どうですか」「どう思いますか」「で、どうされますか?」と尋ねるのは、私の経験上とても勇気の要ることです。

自分が正しいと思いや、相手にこうなってほしいという思いが強ければ強いほど、また逆に、相手との関係を断ち切ってしまうと、相手の思いを聞き返すのは難しくなると思われます。

親鸞さまは、アサーションなんてご存知のはずはありませんが、お言葉のひとつひとつは、自分の立場を率直に表現されながらも、他者を尊重する、自分と結論が違っても、それ(その人)を認めることができるお心を持っておられたことを教えてくれます。

 すぐに決めつけないで、お互いの意見を聞き合った後に、さらにもう一度気持ちを確認し合うことのできる心があれば、どれだけお互いが成長できるでしょう。「あんなに言ったのに」という逆恨みもなくなります。そもそも夫婦ゲンカなんておこらないと思いませんか?