ものがたり
1977年秋から翌年2月にかけて。岬によせる波の音は、北浦の海の豊かさをたたえていた。
「海はわしらの米びつじゃ!」
男は昼夜なく魚を追って沖に出る。陸での生活は全部女がとりしきる。
折しも町議会で、原発立地のための特別協議会設置の強行採決のニュースが入った。
マスコミは海側(漁民)と山側(農民) の対立を連日あおりたてた。「そんなはずはない。自分の目で確かめよう」漁協婦人部の雅代や初江たちは、意を決して農村部に入っていった。見ると聞くとは大ちがい。ほとんどの町民が心のなかでは原発には反対だとわかった。
自信をもった婦人たちは手弁当で島根原発の視察に向かう。島根の婦人たちは「これから反対できるあなたたちは幸せです」と、原発によって荒れた海と山、人の心を切々と訴えたのだ。
年があけると国や県は北蒲原発を一国の重要電源に指定してきた。
折からの大不況のなか、元校長の大野先生を議長とする全県の労働者や市民の「共闘会議」が「首切り・合理化も、減反、原発も根っこはひとつ」と立ち上がった。山口市役所の労働組合もストライキで原発に反対した。小学校の川本先生は「母なる海を守れ」と書いた子どもたちのポスターを漁民に贈って激励した。
給食調理員の泰子のところにも助役が来て「公務員は国全体の利益を考えて」と切り出す。恩を仇で返すような恥知らず育てた覚えはないと母親のノブ。だが泰子の真剣な思いにふれてノフの態度は変わる。
「助役さんは金さえあれば人の気持ちが片つくと思っているんてすか。遺族年金ならすぐ返してあげますよ。そのかわり、この娘の父親を返してください。一銭五厘でひっぱりだされて原爆で灼き殺された父ちゃんを!」
1978年2月6日、北浦町役場ロビー。環境調査拒否をめくる激突の日、外には焚き火をしなから待機する千数百人の町民。一糸乱れぬ全県の「共闘会義」の隊列も。
「男はさかって女が前へ」
かあちゃんたちか踊り出た。囲の未来をかけて全県民の先頭にたった雅代は町長に静かに問いかける。
「私たちはずっと歴史というものにふりまわされてきたように思います。戦後になっても、わたしらの這いつくばるよっな暮らしは変わりませんでした。上にのしかかるものの顔ぶれは変わったか、結局長いものにまかれて我漫しつづけてきたような気がします。人間として、人の子の親としてやむにやまれずはじめておかみにたてついた気持ちをどうかくみ取ってくたさい。」
歴史の舵とりとしてその舞台に躍り出た無名の人々。誇りの海は、いま、大きく時代をうねっていく。