問題提起


浄土真宗では、最近、人が死ぬと「忌中」のかわりに「還浄(げんじょう)」という札を貼っています。なぜでしょう。


 ・「忌中」とは、

死を「ケガレ」たものと考え、また「近づくとケガレがうつる」(触穢思想)と考えて、死後50日間
@悪い力の働きにとらわれる前に、あらかじめそれを避ける(忌む) 
Aそのために精進をし、お籠もりをする(斎む)ことです。    

 ・浄土真宗の立場は、門徒物知らず(物忌み知らず)を立場とします。

蓮如上人も      
 「わが流には仏法についてものはいまはぬといへることなり」
                         (蓮如上人『御文』)
と言われています。    

 ・「忌中」をやめること

浄土真宗の世界では、これに異を唱えるものはいないと思います。
「忌中」はやめる方向で間違いないと思いますので、どんどん推進してゆくべきであると思います。

ところが今度は、かわりに用いた「還浄(げんじょう)」という用語の是非が問題になっています。


   還浄とは、死んだ人が浄土にかえったという意味です。

「かえる」という言葉を使用することの是非
親鸞聖人には、浄土に生まれることをしばしば「かえる」と表現されていますので、なんら問題はないと思います。
        例「法性のみやこへかへる」

「かえる」の内実ー「還」か「帰」かー
   ○字義
      「還」…(円をえがいて)もとへもどる。いったのが元の場所へもどる
      「帰」…@回ってもどる、もとのところへもどってくる
           Aあるべき所へ落ち着く。回ったあげくに適当な所に落ち着く
   ○用例
      ・「帰」を@の意とすれば「帰」と「還」は同意になります
          例「還俗」は「帰俗」ともいう
              (藤堂明保『漢和大辞典』・白川静『字統』などを参照)

      ・親鸞聖人には、「還」という字を用いて「浄土に生まれる」を意味する用例があります。
          「還来」(『愚禿鈔』)
      ・歴史的にも善導大師(中国)が使用されています。
     ⇒だから「還浄」を用いて何が悪いという見解にも一理あるといえます。

   ○教義的内実は

浄土真宗の第一義として、「浄土にかえる」は、「帰」 Aの意、「あるべき所へ落ち着く。回ったあげくに適当な所に落ち着く」という意味であるというべきであります。
        
次に、「還」や「帰」@の意、「もといたところへもどる」という解釈も成り立ちます。『観無量寿経』所説の、自分の父を殺した阿闍世王子が、教えによって救われてゆく話 で、親鸞聖人が阿闍世王子を「権化の仁」(私を教え導くために姿を変えて出てきて下さった仏さまだ)と捉えられるところや、師匠である法然上人を勢至菩薩の化身とみる見方などです。


私 見 


@本覚法門的理解について
・確かに、「 あの人は、私を導くために浄土から出てきて下さった仏だ」という味わいも成り立つことです。しかしそれは、回りの皆が仏だというのではなく。あくまで特別な場合でありましょう。

 ・浄土真宗が「帰」@を第一義とすると、どんな生き方をしていても、仏さんが私を導くためにあのような生き方を示して下さったのだと味わうことが中心となります。そうでしょうか?

・また、人の行動や言葉、また死などに仏の救済のはたらきをみることと、その人が事実として仏法を喜んでいたか(信心まことか否か)は別問題だと思います。その見方だけでは、宗教として現実批判の機能を失い、天皇を阿弥陀仏とする(戦争中はそう言った)理解がやすやすと成立するでしょう。
    私は、親鸞聖人の、
    「よしあしの文字をも知らぬ人はみな まことのこころなりけるを
     善悪の字知りがおは おおそらごとのかたちなり」
    と、和讃された批判的視点を忘れてはならないように思います。

A十劫秘事的理解について
・還浄という札を貼ることで、人の「死」だけに限らず、死者が「浄土に生まれた(かえった)」という意味を付加することになります。つまり、真宗の葬式をしたものは、形式上皆往生したことになります。

つまり、死ぬまで不埒な悪行三昧を行いながらも、死ねばだれでも浄土へ生まれるというとこになると、寺へ参って教えを学ぶ意味がなくなるという批判(信楽峻麿)もうなずけます。
しかし、それをいうのなら、「帰」「還」「往」いずれも浄土に生まれたことになるのですから、大きな差異はありません。

B形式的往生について(だれが決めるのか)

・通夜の提灯などに「還浄」「帰浄」と書けば、形式上だれでも往生したということになります。また、喪主の挨拶も徐々にマニュアル化され、かなりの人が「この度○○は浄土にかえりました」といっています。欠礼ハガキなど(ちなみに欠礼は仏教的でない)も、肉親が本当にそう思っている場合は別として、形式化すれば、やはりだれでも往生したということになります。僧侶が各戸に「還浄」「帰浄」と貼って回る場合も、全員に貼るのであれば同じことです。

しかしこれは一方で、人の死が「忌まわしいケガレ」ではないということや、「冥土」「天国」「靖国」などに生まれるのではないことを対外的に示すという、真宗独自の立場表明であることもを忘れてはならないでしょう。

この形式上の往生が含む問題性を追求するのであれば、それではだれが往生の是非を決めるのか、という問題が生じると思います。

では、どうするか   

親鸞聖人が使う「かえる」は、
「還」の使用例があるとしても、漢字本来の意味からすると、教義的に適さないと思います。
また、正しくは「帰」であるとしても、「帰浄」というぐらいなら「往生」の方が一般的で分かりやすいと思います。
とはいえ、A十劫秘事的理解B形式的往生についてで示した問題を引き起こします。

「忌中」にかえて、私たちは如何なるメッセージを伝えるべきでしょうか。まずは「忌中」をやめること、そして人に死を知らせる(必要ないかな?)ことを中心にするべきでしょう。そして「還浄」「帰浄」「往生」等が、上記の問題を惹起すことを考慮すると、「帰」か「還」かをつめて論議する必要はないようにも思います。何も貼らないのも一つの道でありましょう。札にそこまで意味を持たせずとも、伝える方法はあるると思います。気の利いた言葉を思いつきませんが「哀悼」なんかいかがでしょう。


皆さんのご意見を聞かせていただき、深めてゆければ、
その上でどうすべきかを決めてゆきたいと思います。    


「忌中・還浄問題」の目次へ
「仏教儀礼を考える」の目次へ
目次へ