みなさんご意見有り難うございます。
《忌中は問題がある》
ということに関しては、みなさんのご意見は同じであるようです。
・ただ、その前提として、
「正しいとか、正しくないという意味ではなく、私は「神道的生き方」もあれば、
「念仏者的生き方」もあるのだろうと思うのです。(略)一番大切なことは、
「念仏者としての私の生きざまにとって、これは要らないし、恥ずかしいこと
でした」という気付きからどう行動していくか、ということだと思います。」(あさと)
というご意見は、差別問題に取り組む姿勢としても重要なポイントになるように思います。
・また、「つつしむ」と読むのか、「何回忌を何回会とかえるのか」という問題も
検討が必要でしょう。〔下の《問題点》(4)(5)参照〕
《札自体なくすべき》
というご意見が結構多いように思います。(龍水・まこ・あさと)
《中身・プロセスがが大事》
また、札の有無よりも(有無とは別に・有無以前の問題として)中身・
プロセスが大事というご指摘も多いようです。(棚原・あさと・まこ)
…なんか教条的な気がするのです。(略)論義を重ねて、結局
「○○」じゃないとダメって成っても結局大きなハリボテを
構築しただけに終わってしまうんじゃないかと・・・・迷惑する
のは、葬儀社であり、御同行のような気がします。(棚原)
…忌中ではなくて、お念仏のぬくもりを聞かせていただける
ような言葉として「代わりのもの」を貼るということは、結構
大事なことではないかと思います。(あさと)
…根本からの廃止論だけではなくて、現実論もこの際は組み
立ててみたいと…(まこ)
《忌中の代案》
「還浄」 …沖和史(過渡的形態として)・まこ(忌中よりはよい)
「帰浄」 (信楽峻麿・あさと)
「哀悼」(智寧)
「悲中」(棚原)
「精進中」(龍水
《問題点》以下の問題点についても、つめてみたいと思います。
ご意見をお待ちしています。
(1)還相回向・往相回向する主体はあくまで阿弥陀如来である訳です
が、人間が往生した時点で阿弥陀如来と同一化するということにな
るのでしょうか? 「げんしょうしょうじょうじゅ」(漢字忘れ)
の問題でもありますね。
結局、「往生」とは何か?という大問題につきあたりますね(^^;
今後の展開に期待していますので、よろしくお願いします。(まこ
)
(2)
お寺参りもせずに亡くなった人は、お浄土に往くのか、
それとも往けないのか、ということです。お浄土にありながら、
お浄土にいることさえわからないという世界が、「疑城胎宮」という
仏智疑惑の世界なのではないでしょうか??阿弥陀様は、
地獄をおつくりになったのではなく、「地獄行きの行いしかし得ない
我が身であると知らされる」のが阿弥陀様のおはたらきなのではないか??
そんなことを感じています。(あさと)
(3)
還浄というのは、親鸞聖人や法然上人などの特別な場合であり、
身内に使うのはいかがなものか?という先生の問いかけです。
親鸞聖人や法然上人は、何が特別なのでしょう?私たちが往く
お浄土とは違う、特別なところに「還る」のでしょうか??
お念仏によって聞かせていただく世界は、まさに「われら」と聞かせて
いただく世界なのではないでしょうか。そこには、「でも、親鸞聖人や
法然上人は特別だよ」という世界観があるのでしょうか。
親鸞聖人がお浄土からこの世にお出ましになり、お浄土に還って行
かれたのは特別で、私たち一般人はお浄土から来たことなどあり得
ないのでしょうか。それと、「特別な人」は誰と誰で、「特別でない人」
とどのようにしてわけるのでしょうか。(あさと)
(4)「札」自体の意味とか、元に戻って改めて「忌中」の意味とか、問直したい
(まこ
)
・「忌」は民俗宗教から出た言葉(まこ・智寧)
・「忌」には「つつしむ」という意味(YASU)
(布教師さんから)「身内が亡くなった時には、極力つつしんで、亡き人が
伝えようとしていることを厳粛に受け止める期間でなければならない
のです。」と聞きました。
・「つつしむという意味がある」というのは本願寺派の公式的な見解(まこ)
(5)年回の呼称(回忌か回会か)
(意味が)違うのであれば同じ文字を使用して「会通」(えつう)して済ます
のではなく「何回会」というように言葉をかえて違いをはっきりさせることも
必要かも知れません。(智寧)
(6)葬儀社さんがやりすぎてしまっている現実に対して、(略)どうするか(
まこ)
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