智寧さん
還浄について、いろいろな見解が出ていますが、「如来の救いは先手である。」と言う事を
「だから、死んだらほとけと言うのですね」と、きわめて単純にナットクしたら、
それは典型的な異安心と伝統教学の先生に強く叱られた事があります。
それにしては、私も回りのお同行も「○○はお浄土へかえっていきました」と平気で挨拶しています。
この平気で挨拶に使っている言葉を、吟味してみようということだと思います。
私の地元の田原のおそのさんは、懸命な聴聞のすべてが無駄骨であった事を臨終におっしゃたそうです。
死後の浄土云々の教えでないのが真宗ではないかと言う事なのでは?
死後を「安養の浄土」と、死後ばかりを強調した蓮如さんの影響が大きいように思います。
浄土は、今働く浄土で有らねばならいのでは?
信楽先生確認したものでなく、私の勘繰りの域を出ませんが、「しねばホトケ」を
厳しく異安心と切って捨てる勧学寮が、忌中とか500回忌とか、明らかに忌み嫌う
意味を持った「忌」に対して何も言わず、また「還元浄」の言葉にも何も言わない
事への厳しい追及なのではないかと。脳死もガイドラインも国旗国歌法にも沈黙を
守り、本来裁断すべき「忌」や「還」についても同じく沈黙してばかりいる宗門中枢の
姿勢を問われているのではないかと。
安心論題というマニュアルに書いてない事が出てくると、どうしていいのか分からない
宗門の主体性の無さをお嘆きなのではないかと。
「還帰」という言葉も真宗のお寺でみた事が有ります。
何を使っても門徒や手次寺の自由という事になったのかも知れませんね。
親鸞聖人をお留守にして、何でもありの方向に行ってしまう宗門への警鐘と受け止めて
行きたいと思います。現世を諦めて、当来を望む蓮如教学に埋没する事は
宗祖の御教えと違っているように思うのですが。
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