お邪魔しま
Ryusen(12) 投稿日:1999年11月11日<木>23時45分
還浄読ませていただきました。勉強させていただきます。
深川助教授にも詳しく聞いてみましょうかね。お隣ですし。

ところで情報センターのようなホームページというのはすごいですね。
そんなの作られるのであれば、ちゃんとタグを勉強してください。
安芸南組のホームページ拝見しましたが、タグを正しく使われていないところも多くあるようです。情報センターを目指すのであれば必ずHTML4.0strictでなければなりません。
小言野郎のRyusenでした。失礼。
http://www.ymg.urban.ne.jp/home/jodoji/
始めまして
棚原(14) 投稿日:1999年11月12日<金>00時09分
始めまして。

安芸南組のページからやってまいりました。
今後色々と発信期待してます、マツリカでしたっけあれをアップとか
出来ないでしょうか?

そんでね、還浄の話なんですが、なんか教条的な気がするのです。
言葉には色々な意味が有りますし、これは教義的にも重要な問題ですが、
論義を重ねて、結局「○○」じゃないとダメって成っても
結局 大きなハリボテを構築しただけに終わってしまうんじゃないかと・・・・
迷惑するのは、葬儀社であり、御同行のような気がします。

と言っても、只の文句に成りますので、
だれか忘れましたが、「忌中」でも「還浄」てもなく、「悲中」が良いって
書かれておりました。私としてはこれが好きです。

といきなり好き勝手書いてしまいましたすいません。
http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/
Re:始めまして
釈智寧(16) 棚原さんへ 投稿日:1999年11月13日<土>08時33分
>始めまして。
>安芸南組のページからやってまいりました。
 ようこそ、いらっしゃいました。さっそくご意見有り難うございました。
>今後色々と発信期待してます、マツリカでしたっけあれをアップとか
>出来ないでしょうか?
 組が違うのですが、心当たりの人に伝えておこうと思います。
>そんでね、還浄の話なんですが、なんか教条的な気がするのです。
 「教条的」といいますと…、
 ええっと、辞書を引くと、 
 「現実や具体的な諸条件は無視してこれを機械的に適用しようとする立場。」
 とありますが…。

>言葉には色々な意味が有りますし、これは教義的にも重要な問題ですが、
>論義を重ねて、結局「○○」じゃないとダメって成っても
>結局 大きなハリボテを構築しただけに終わってしまうんじゃないかと・・・・
>迷惑するのは、葬儀社であり、御同行のような気がします。
 そうですねぇ。
 「僧侶」と「門徒・葬儀社」の間にある「意識のズレ」「隔たり」のようなものについて 指摘してくださったのだと受け取りました。
 葬式がお同行にとって有意義な、また教義的にも筋の通った宗教行事になるようにしてゆ きたいと思います。

>だれか忘れましたが、「忌中」でも「還浄」てもなく、「悲中」が良いって
>書かれておりました。私としてはこれが好きです。
 各戸に貼る札として「悲中」が良いということですね。
 つまり札に込めるメッセージは、「悲しみ」ということですよね。
 これは、ほぼ100%みんな悲しいのだから、間違いはないでしょうね。

 ちなみに、一つお考えをお聞かせ願いたいのですが、
 真宗的には「悲しい」だけではなくて
 「めでとうそうろうべし」(親鸞聖人のお手紙にお弟子が亡くなったとき、
 その往生をめでたいとおっしゃっている)というような世界もありますよね。
 このことについて、何かあればお願いします。
 
http://ww2.enjoy.ne.jp/~chinei63/
還浄に関するさまざまなご意見@
釈智寧(管理人)(24) 投稿日:1999年11月14日<日>14時21分
以下は、神通寺HP掲示板に書き込まれた「忌中・還浄」に関するものです。
転載を快諾下さったみなさんに感謝いたします。


@大願さんお待たせしました。「還浄について」載せました
 投稿日 1999年11月11日(木)22時06分 投稿者 釈智寧(自称九高僧)

 最近広島界隈では、葬式の時ほとんどが「忌中」ではなく「還浄」になりました。
ところが、今度は『中外日報』や『季刊せいてん』などで、この「還浄」が問題にされています。
ご承知のように、信楽先生もその問題点を指摘されておられます。
実は私、4〜5年前の拙寺の寺報に、門の両脇に還浄と書かれてある提灯が立っている通夜の写真と、
「○○さんの通夜。忌中ではなく還浄とある」という写真の解説を載せました。
信楽先生の話を聞く度に、そのことについて少なからず責任を感じながら、
なかなかきっちりと考えることをしませんでしたが、このたび、メモ程度ですが
私なりに思いを載せました。
みなさんのところは、お葬式はどうなってますか?忌中ですか?還浄ですか?
そして、どうあるべきだと思われますか?ご意見をお聞かせ下さい。
その上で今後どうするかを決めてゆきたいと思っています。


A還浄と脳死
 投稿日 1999年11月12日(金)03時12分 投稿者 まこ

 ここ数年の取り組みで、岐阜では「還浄」を使うようになりつつあります。
 「忌中」にかわるもっといい用語はないんかということで、暫定的にお札
は「還浄」にしてみたらというのが、岐阜での動きです。
 これで狭義的に充分と言うことではなく、また、せいてんや中外日報での
議論を知らないので、なんとか資料を入手した上で考えてみたいところです。
 今夏の葬儀社との話し合いでの目に見える成果としては、新聞告知での案
内の「永眠」がほとんど消えて、「逝去」「死去」になったことです。寺院
関係者は「往生の素懐をとげて」というのが通例ですが、この表現は教義上
はどうなんでしょう?
 とまれ、「還浄」についての信楽先生の見解の要点でも教えていただけな
いでしょうか?
(略)

B投稿日 1999年11月12日(金)11時24分 投稿者 管理人@あさと

(略)
@釈智寧さん、HPのレポート「還浄について」、読ませていただきました。
数年前、友人とまさにこのことについて論じたことを思い出しています。
「なあ、お浄土に往くってことは、往きて生まれるから『往生』なんだよな。
還っていくんじゃないよな。」
私は、「でも、『法性のみやこにかえる』って言葉もあったしなあ・・・。
と、曖昧な返事しかできませんでした。
今考えているのは、私たちが家族の死に際して「忌中」という札を貼ることと、「還浄」という言葉を使用することとを別々にしないと、何かごちゃごちゃになってしまうのかな、ということですね。
もう少しまとめてから書いてみたいと思います。
http://ww2.enjoy.ne.jp/~chinei63/
還浄に関するさまざまなご意見A
釈智寧(管理人)(25) 投稿日:1999年11月14日<日>14時24分
引き続き、還浄に関する様々なご意見です。(神通寺HPより転載)

C@あさとさん@まこさん、ありがとうございました
 投稿日 1999年11月13日(土)13時04分 投稿者 釈智寧(自称九高僧)

@まこさん
さっそくありがとうございました。
>暫定的にお札は「還浄」にしてみたらというのが、岐阜での動きです。
>(中略)資料を入手した上で考えてみたいところです。
ご教示ありがとうございます。何かお気づきの点がありましたら、またお願いします。

>今夏の葬儀社との話し合いでの目に見える成果としては、新聞告知での案
>内の「永眠」がほとんど消えて、「逝去」「死去」になったことです。
「永眠」は、真宗の教義的におかしい(往生した者はこの世にもどってきて、他を救うはたらきをしているので、永遠に眠るのではない)から、
少なくとも一般的表現にしてもらったということでしょうか。

>寺院関係者は「往生の素懐をとげて」というのが通例ですが、この表現は教義上
>はどうなんでしょう?
 「寺院関係者」に限らず、真宗であれば教義的には問題ないように思いますが。
>とまれ、「還浄」についての信楽先生の見解の要点でも教えていただけな
いでしょうか?
 ○信楽先生の地元での経験談
  通夜の帰りに、先生がタクシーの運転手に質問を受けた。
    故人はどこへ行ったのか。
    ワシは、故人が一度も寺に参らなかったのを知っている。
    しかし、坊主は通夜の席で「今頃お浄土で…」と言っていた。
    一度も手を合わせたことのないような者でも浄土に生まれるのか?
  今頃そう言う坊主がいると批判。
 ○この文脈で「還浄」を批判されます
  「還」とは「くるっと回ってかえってくること」
     つまり、還浄とは、もともと仏さんだったのが、この世へ出てきていた。
     それがこのたび死んで還っただけ、ということになる。
     これは真宗ではない。我々は地獄から出てきたのだ。
     これでは、寺へ参って教えを聞く意味がなくなる。
     また、還浄は
        親鸞さまの墓所…還浄殿
        法然さま
     など、特別な場合で、自分の身内に使うのはどうか…。
  「帰」とは、「本来の場所に落ち着くこと」
     我々は浄土にかえるのだが、初めてかえるのだ。
     貼るのなら「帰浄」にすべき。
「聖意測りがたし」ですが、このような内容だったと思います。私なりに要約すると、
  「どんな生活をしても死にさえすれば仏か」(十劫秘事的理解)
  「故人はもと仏であったか否か」(本学門的理解)
  「漢字の意味と用法」
の3点に絞ることが出来るように思います。それに対する私見は、
http://ww2.enjoy.ne.jp/~chinei63/genjo.htm
をご参照下さい。

@あさとさん
>今考えているのは、私たちが家族の死に際して「忌中」という札を貼ることと、
>「還浄」という言葉を使用することとを別々にしないと、何かごちゃごちゃになってしまうのかな、ということですね。
>もう少しまとめてから書いてみたいと思います。
お待ちしてま〜す。


D「帰浄」でいきましょうよ!
 投稿日 1999年11月13日(土)23時24分 投稿者 管理人@あさと

(略)
で、本題ですが・・・。
信楽先生の問題提起は、私にとって新鮮だというか、「そういう視点が抜けていたな」という驚きであったというのが、正直な気持ちです。
突き詰めていってしまうならば、「還る」のは教義上問題があるが、「帰る」のは差し支えない、ということになるのでしょうか。
そうなったら、「帰浄」という言葉を全国的に「流行らせる」しかないですね。(^^ゞ
もう一点、大事なことは、単なる「忌中」の言い換えとして「帰浄」があるのではない、ということをはっきりさせることが大切だと思います。
私の思いとしては、先立たれた故人が、私を仏縁に導いて下さった先達であったといただくところに、帰浄ではなくて還浄といういただき方が成り立つのだという想いもあるのですが、そこはグッと抑えて(笑)、亡くなられた方を「ケガレ」と見る思想が、いかに故人を冒涜しているのかということをはっきりお伝えすべきだと思います。
言葉の言い換えではなく、意味が転換されていくのだということをお伝えする意味において、葬儀から続く七日参りなどで、しっかりと意志疎通をしながらお念仏のご縁に触れていただけることが大切でしょうね。
そんなことを感じました。
http://ww2.enjoy.ne.jp/~chinei63/
還浄に関するさまざまなご意見B
釈智寧(管理人)(26) 投稿日:1999年11月14日<日>14時26分
引き続き、還浄に関する様々なご意見です。(神通寺HPより転載)


E発言転載OKです 投稿日 1999年11月14日(日)05時12分 投稿者 まこ

 信楽先生の発言要旨を紹介していただいたおかげで、おぼろげに
想定はしていた問題点がはっきりと見えてきたのはありがたいこと
です。
 還相回向・往相回向する主体はあくまで阿弥陀如来である訳です
が、人間が往生した時点で阿弥陀如来と同一化するということにな
るのでしょうか? 「げんしょうしょうじょうじゅ」(漢字忘れ)
の問題でもありますね。
 結局、「往生」とは何か?という大問題につきあたりますね(^^;
 今後の展開に期待していますので、よろしくお願いします。
http://ww2.enjoy.ne.jp/~chinei63/
還浄について
大願(27) 投稿日:1999年11月14日<日>22時24分
智寧さん
還浄について、いろいろな見解が出ていますが、「如来の救いは先手である。」と言う事を
「だから、死んだらほとけと言うのですね」と、きわめて単純にナットクしたら、
それは典型的な異安心と伝統教学の先生に強く叱られた事があります。
それにしては、私も回りのお同行も「○○はお浄土へかえっていきました」と平気で挨拶しています。
この平気で挨拶に使っている言葉を、吟味してみようということだと思います。
私の地元の田原のおそのさんは、懸命な聴聞のすべてが無駄骨であった事を臨終におっしゃたそうです。
死後の浄土云々の教えでないのが真宗ではないかと言う事なのでは?
死後を「安養の浄土」と、死後ばかりを強調した蓮如さんの影響が大きいように思います。
浄土は、今働く浄土で有らねばならいのでは?
信楽先生確認したものでなく、私の勘繰りの域を出ませんが、「しねばホトケ」を
厳しく異安心と切って捨てる勧学寮が、忌中とか500回忌とか、明らかに忌み嫌う
意味を持った「忌」に対して何も言わず、また「還元浄」の言葉にも何も言わない
事への厳しい追及なのではないかと。脳死もガイドラインも国旗国歌法にも沈黙を
守り、本来裁断すべき「忌」や「還」についても同じく沈黙してばかりいる宗門中枢の
姿勢を問われているのではないかと。
安心論題というマニュアルに書いてない事が出てくると、どうしていいのか分からない
宗門の主体性の無さをお嘆きなのではないかと。
「還帰」という言葉も真宗のお寺でみた事が有ります。
何を使っても門徒や手次寺の自由という事になったのかも知れませんね。
親鸞聖人をお留守にして、何でもありの方向に行ってしまう宗門への警鐘と受け止めて
行きたいと思います。現世を諦めて、当来を望む蓮如教学に埋没する事は
宗祖の御教えと違っているように思うのですが。
教えて下さい。
あさと(28) 投稿日:1999年11月14日<日>23時47分
一番いい解決方法は、もしかしたら「札を貼ることをやめる」ことかも知れません。
うちの掲示板でのやりとりを見ながら、そんなことも感じています。
ただ、私たちが身内の「死」に直面して、その死をどう受け止め、そこから何を聞かせていただくのかという視点を抜きにしては、やはりこの問題は語れないでしょうね。
「札は要らない」「念仏者に忌中などない」という切り捨て方は、私としては何としても避けたいという思いが強いです。
身内を亡くされた悲しみにある遺族に必要なのは、きびしい真実としてのお念仏ではなくて、本当のぬくもりを聞かせていただくお念仏だろうと思っています。
その意味で、忌中ではなくて、お念仏のぬくもりを聞かせていただけるような言葉として「代わりのもの」を貼るということは、結構大事なことではないかと思います。

ところで、信楽先生の問いかけを聞かせていただく中で、私がどうしても理解できないところがあるので、皆さんに教えていただきたいことがあるのですが・・・。

一つは、
お寺参りもせずに亡くなった人は、お浄土に往くのか、それとも往けないのか、ということです。
お浄土にありながら、お浄土にいることさえわからないという世界が、「疑城胎宮」という仏智疑惑の世界なのではないでしょうか??
阿弥陀様は、地獄をおつくりになったのではなく、「地獄行きの行いしかし得ない我が身であると知らされる」のが阿弥陀様のおはたらきなのではないか??
そんなことを感じています。

もう一つは、
還浄というのは、親鸞聖人や法然上人などの特別な場合であり、身内に使うのはいかがなものか?
という先生の問いかけです。
親鸞聖人や法然上人は、何が特別なのでしょう??私たちが往くお浄土とは違う、特別なところに「還る」のでしょうか??
お念仏によって聞かせていただく世界は、まさに「われら」と聞かせていただく世界なのではないでしょうか。そこには、「でも、親鸞聖人や法然上人は特別だよ」という世界観があるのでしょうか。
親鸞聖人がお浄土からこの世にお出ましになり、お浄土に還って行かれたのは特別で、私たち一般人はお浄土から来たことなどあり得ないのでしょうか。
それと、「特別な人」は誰と誰で、「特別でない人」とどのようにしてわけるのでしょうか。

考え出すと、どんどん疑問が湧いてきます。
こういう疑問を感じる私って、変でしょうか??
信楽先生の問題提起を私が聞かせていただいて、逆にそんな問題提起をせずにはおれません。
というわけで、皆さんのご教示をよろしくお願いいたします。
http://www.gix.or.jp/~asa-01
Re:お邪魔しま
釈智寧(管理人)(29) Ryusenさんへ 投稿日:1999年11月15日<月>07時13分
ごめんなさい。お返事が遅くなりました。

>還浄読ませていただきました。勉強させていただきます。
 ご意見お待ちしています。

>深川助教授にも詳しく聞いてみましょうかね。お隣ですし。
お願いします。できればここに加わって下さるよう、お願いしてみて下さい。龍谷大学教員は、1台ずつコンピューターとメールアドレスを持っておられますので容易なことだと思います。

>ところで情報センターのようなホームページというのはすごいですね。
>そんなの作られるのであれば、ちゃんとタグを勉強してください。
>安芸南組のホームページ拝見しましたが、タグを正しく使われていないところも多くあるようです。情報センターを目指すのであれば必ずHTML4.0strictでなければなりません。
>小言野郎のRyusenでした。失礼。
 ありがとうございます。厳しくお導き下さい。あれから「浄土真宗…ために」読むのを失念していました。また続きから読んでみたいと思います。
http://ww2.enjoy.ne.jp/~chinei63/
Re:還浄について
釈智寧(管理人)(31) 大願さんへ 投稿日:1999年11月15日<月>09時28分
大願さん、ご意見ありがとうございました。
>(略)私も回りのお同行も「○○はお浄土へかえっていきました」と平気で挨拶しています。この平気で挨拶に使っている言葉を、吟味してみようということだと思います。

 そうですね。「仏さんのお慈悲を分かろうが分かるまいが、死にさえすれば浄土」という結構一般にひろまっている真宗理解を見直して、「信心まこと」か否か、互いの信心を確かめあうご縁になれば良いと思います。
 それと同時に、「平気で浄土へかえったと挨拶しあっている土地柄」は、さすがにお念仏が弘まった土地ならではの「習俗」だとも感じます。
 では、「故人が浄土へかえったか否か、誰がそれを決めるのか」、それをつめると難しい問題になりますが、「故人が念仏を喜んでいたか否かは、回りの者、家族が一番良く知っている」ということは言えるでしょう。

>私の地元の田原のおそのさんは、懸命な聴聞のすべてが無駄骨であった事を臨終におっ
>しゃったそうです。死後の浄土云々の教えでないのが真宗ではないかと言う事なのでは?(略)

 おそのさん「無駄骨であった」という言葉を「死後の浄土云々の教えでないのが真宗ではないかと言う事」として否定的な意味でご理解されているということでしょうか?
 私か理解している「無駄骨であった」という意味は、「これなら大丈夫(信福心)」とか「これではだめ、地獄行き(信罪心)」という自己判断(自己計量・自己計度)を超えた世界が開かれるのだということと理解しています。
 上の話との関連で言えば、そう言う世界は、聞かなくても分かる、つまり聞かなくても良いということを意味するのではなく、聞き抜いて初めて「思い当たる」(経験としてうなずかれる)世界であって、聞かずにおいて「思い込む」のとは違うんだということ(信楽先生みたい)を確認することだと思うのです。
 
>「還帰」という言葉も真宗のお寺でみた事が有ります。(略)親鸞聖人をお留守にして、何でもありの方向に行ってしまう宗門への警鐘と受け止めて行きたいと思います。
 うっ!耳が痛い…。
 ちなみに親鸞聖人における「還帰」の用例は2つあります。
 @『高僧和讃』「本師源空命終時…浄土に還帰せしめけり」
     源空讃の流れからいうと「もと仏だったのがこのたびかえった」という意か
 A『ご臨末御書』「我歳きはまりて安養浄土へ還帰すとも」
     華園文庫に初見(1800年代)のなので対象外か。
 これだけでは、はっきりしたことは分かりません。また、
 歴史的に使用された意味・漢字本来の意味からすると、
 漢字博士ではないのではっきりとはいえませんが
 「もといたところへかえる。たちもどる。」(詩経)
 になるようです。
http://ww2.enjoy.ne.jp/~chinei63/
還浄に関するさまざまなご意見C
釈智寧(管理人)(33) 投稿日:1999年11月16日<火>22時13分
引き続き、還浄に関する様々なご意見です。(神通寺HPより転載)

Fずれているかもしれませんが?
 投稿日 1999年11月14日(日)22時07分 投稿者 龍水

「忌中」「還浄」「帰浄」の用法の論争はわかるのですが、私は張り紙自体は
不必要だと思うのですが、どうでしょうか?祖父母の時は何も貼りませんでしたし、
ご門徒さんに聞かれれば「貼らなくていい」と答えます。貼っている人には
初7日で「はがしていいですよ」といいます。(意味のないことですが)
「忌中」の張り紙はもともと「ハレ」のおつきあいは遠慮しますということでは
なかろうかと思います。(違っていたらごめんなさい)真宗では縁のないことです。
もしはるならば「精進中」でしょうか?


Gずれてはいないと思います
 投稿日 1999年11月14日(日)23時24分 投稿者 まこ

 本来の真宗の教義からすれば、「張り紙」は余計なことというか、「魔除け」
の性格をもつものでから、その表記が「忌中」でなくなっても、意識は変わらな
い訳で、そのことの方がよほど問題です。年賀状を出す、出さないなんてことも、
戦後の「豊かに」なってきてからの問題です。葬儀社さんがやりすぎてしまって
いる現実に対して、最低の歯止めをどうするかでしょうから、地域によって事情
は異なると思います。
 真宗には「精進中」もないのでは?


Hこんがらがってきた
 投稿日 1999年11月16日(火)00時31分 投稿者 釈智寧(にわか神道学者)

「忌中」の意味ですが、小武正教さんによれば、
  「他人に穢れを伝染させないという意味で、
   「穢れ」から遠ざかるという意味で使われるのは「忌」という言葉です。
   葬儀の時に「忌中」という張り紙を張るのも不浄を慎むという意味なのです」
                    (『真宗と葬儀』本願寺1998年)
とあります。私が聞いたところによると(こういうのが一番アヤシイ)、
「近寄るなうつるぞ」という警告的意味だったと記憶しています。
前掲書を読むと、「喪中」「服喪」についても説明があります(p80〜)。
「服喪」的意味として「忌」には「つつしむ」という意味もありますので(@まこさんの掲示板に少し詳しく書きました)
、龍水さん(はじめまして)の「ハレのおつきあいは遠慮します」ということも間違いではないと思いますが。
あさとさんのご意見も含めて、もう少しじっくり考えてみたいと思います。


I投稿日 1999年11月16日(火)17時57分 投稿者 管理人@あさと

@龍水ちゃんのご意見、ごもっともです。
「張り紙自体が不要」だし、まさにみ教えを聞いていく中で邪魔になっていくのですよね。
ただ大切なことは、「これは要らない」「これは邪魔だ」というスタンスでは、み教えの真意が伝わらないように思うのですね。
「要らない」「じゃまだな」と言う判断を下すのは、あくまでも人一人の念仏者であろうと思います。
それは、お念仏を通していただく生命観によって、先立った人を「ケガレ」と見ることが出来なくなる、そう言う見方をしていた私の生きざまが知らされ、問われてくるということだろうと思います。

@まこさんの問題提起は、そこで「私たちはどう行動するのか?」ということだと思います。
言葉の言い換えだけなら、本当に意味がなくなってしまうわけで、僧侶として、あるいは念仏者として、この言葉を通して何を学び、聞かせていただくのかを考えていく必要があると思います。

@にわか神道学者さん(笑)、不浄という思想は、やはりお念仏を通したら「それでいいのかな?」という疑問に当たりますよね。
正しいとか、正しくないという意味ではなく、私は「神道的生き方」もあれば、「念仏者的生き方」もあるのだろうと思うのです。
ただ、私が今までの学びで感じたことは、私たち念仏者の「生命の尊厳」という視点で差別や平和の問題を考えていくとき、「ケガレ」思想や、「ヤスクニ」問題を避けて通れないのも事実です。
だから、まずお念仏のご縁をいただいた私たちは、「差別はおかしい」「本当の平和とは」ということをお念仏に問うていくのですよね。
その上で、私たちの生きざまにおいては「ケガレ」思想は相容れないものであると気付いていくのでしょう。
だから、一番大切なことは、「念仏者としての私の生きざまにとって、これは要らないし、恥ずかしいことでした」という気付きからどう行動していくか、ということだと思います。
http://ww2.enjoy.ne.jp/~chinei63/
還浄に関するさまざまなご意見D
釈智寧(管理人)(34) 投稿日:1999年11月16日<火>23時15分
引き続き、還浄に関する様々なご意見です。(西順寺衆徒のHPより転載)

Jようこそようこそ(^^) 投稿者:まこ  投稿日:11月14日(日)04時44分16秒

「還浄」に関するコメントの転載はクレジット明記していただければ、どうぞ
自由になさってください。私自身でもこれまでのこの問題での活字媒体での情報
を生き字引?の住職を通じて探してみたいと思います。心ある方々には広く使わ
れつつある用語だし、現実に広げる運動もしてきているので、「札」自体の意味
とか、元に戻って改めて「忌中」の意味とか、問い直していく必要がありますね。
この掲示板でも大いに議論しましょう!>釈智寧さん(法名が2文字同じだ!)


K忌中について 投稿者:YASU  投稿日:11月14日(日)07時34分07秒

>釈智寧さん、まこさん
「忌中」「還浄」の書き込みを十分に理解していないまま、聞いたところを記します。
福井にすむ友人が、布教使さんの話の中で、「忌中とは、忌み嫌う事ではなく、忌に
は『つつしむ』という意味があるのです。従って、身内が亡くなった時には、極力つ
つしんで、亡き人が伝えようとしていることを厳粛に受け止める期間でなければなら
ないのです。」と話されたと聞きました。
大字典などを調べても、つつしむという意味は出ていませんが、そういう意味ならば
少し頷けるようにも思います。また、いろいろ教えて下さい。


L「忌」は民俗宗教の考えでは? 投稿者:まこ  投稿日:11月15日(月)00時04分52秒

 「つつしむという意味がある」というのは本願寺派の公式的な見解でしょう。
ですから、「○○回忌」とも使っている訳です。にしては、蓮如500回遠忌
ははしゃぎすぎという感じがするのは私だけでしょうか?
 法事については「○○回会」を使うようにしようという動きに西順寺も今年
から同調しています。少なくとも、私が出かける法事ではそのように言うよう
にしています。
 「忌」は民俗宗教から出た言葉ではないでしょうか?
 「季刊せいてん」44号と47号に議論の材料があり、詳しくは神通寺さん
の掲示板などで議論がされていますので、ご覧いただければと思います。


Mなるほど 投稿者:YASU  投稿日:11月15日(月)01時15分00秒

考えてみればそうですね。その辺にあまり拘っていない私でした。勉強不足です。


N忌の字のいわれ 投稿者:まこ  投稿日:11月15日(月)05時30分38秒

が文字通りに大変に気になるなので、辞典類にあたってみたいと思います。
本願寺派の公式的見解は全く独自のものではないかというのが、現時点で
の私の直感ですけれど、大谷派ではどのような説明がされているでしょう
か? そもそも「忌中」は問題になってないですか? 別枝さんや藤場さ
んなどの中堅の方々の見解はどうでしょう? 本願寺派では山崎さんや千
里寺の○○さん(度忘れしてゴメンナサイ)あたりはどうされているんで
しょうか?

「季刊せいてん」での深川さんの議論は訓古学でしかなくて、現実問題へ
の問題意識が欠落していて全くお話になりません。沖さんの議論は納得が
いく展開であり、現実の取り組みに根ざしたものであると思います。

「中外日報」は購読していないので、今日にでも購読されている方に連絡
をとって、3回連載のコピーを入手するようにしたいとは思っています。

観念論または訓古学の空中戦にならないで、現実に「忌中」が使われてい
る場面に即して、具体的にどう対処するのか、根本からの廃止論だけでは
なくて、現実論もこの際は組み立ててみたいと思います。

まずは現状の交流とどうしたらよいのかを「忌中」に関してしてみたいと
思いますので、よろしくお願いいたします。並行した議論は高山の神通寺
さんの掲示板で先行して進んでいますので、相互に関連して議論ができる
とありがたいなと思ってます。ホストの考えがやや異なるようですので、
それがかえってオモシロイと思ってますから、よろしくお願いいたします
ね!>あさとさん&参加者ALL&ROMの方々(特に門徒さんの方々)
http://ww2.enjoy.ne.jp/~chinei63/
還浄に関するさまざまなご意見E
釈智寧(管理人)(35) 投稿日:1999年11月16日<火>23時17分
引き続き、還浄に関する様々なご意見です。(西順寺衆徒のHPより転載)

O忌の字のいわれ 投稿者:釈智寧  投稿日:11月15日(月)23時42分29秒

@まこさん
転載許可くださりありがとうございます。あちこちで還浄の話に花が咲いているので、読んでいるうちに頭がこんがらがってきました。
お言葉に甘えて、継続して還浄関連記事を転載させてくださいね。

@YASUさん
はじめまして。失礼を省みず、突然お送りしたメールにも少し書かせていただきましたが、私「還浄問題」について、ずいぶんと保留にしておりましたが、今後どうするか、ちょっと考えてみることにしました。よろしく導きくださいますようお願いしいます。

ところで「忌」の字義に関してですが、
文字の成り立ちからいうと「心中にはっと抵抗を感じてきらう」という意味だそうです。(藤堂明保『漢和大辞典』)
また、諸橋『大漢和辞典』をひくと
@いむ Aいみ Bつつしむ と出ています(4巻p953)。
でもそれは、まこさんがおっしゃるように基本的に仏教の思想ではなく、
本来日本の民俗宗教、神道的思想で、「死」を「穢れ」とする思想や、それが「うつる」(触穢)という思想と深く関連して「身をつつしむ」という意味でした。
小武正教さんによれば、
「他人に穢れを伝染させないという意味で、「穢れ」から遠ざかるという意味で使われるのは「忌」という言葉です。葬儀の時に「忌中」という張り紙を張るのも浮上を慎むという意味なのです」(『真宗と葬儀』本願寺1998年)
とあります。
上記の意味で「つつしむ」のか、それとも違う意味なのか、
はっきりさせなければならないと思います。違うのであれば同じ文字を使用して「会通」(えつう)して済ますのではなく「何回会」というように言葉をかえて違いをはっきりさせることも必要かも知れません。

>観念論または訓古学の空中戦にならないで、現実に「忌中」が使われてい
>る場面に即して、具体的にどう対処するのか、根本からの廃止論だけでは
>なくて、現実論もこの際は組み立ててみたいと思います。
この点について、お気づきの点があればぜひともご教示下さい。


P改行のお願い 投稿者:まこ  投稿日:11月16日(火)00時49分15秒

 釈智寧さん、せっかくの書き込みですが、適当に読み易く改行してくださる
ようにお願いいたします。
 ○回会と法事・法要は呼ぶのが望ましいと私も思います。
 「忌中」札を貼るよりは、まだ「還浄」がいいかな?と疑問は残しています。
 各自が模索してよりよい言葉を作り出していくしかないでしょう。親鸞や蓮
如が生きていた時代とは経済も社会も生活も情報も大きく異なっている中で、
現代化をはかるべき点はあると思います。
 現代に生きる真宗でありたいものです。

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